言語コミュ力以上に、人間性を試すもの。

◼️沈黙は、雄弁

失意の底で、
自我を手放しているのか、

意思の断片を
手繰り寄せているのか、

心に秘めた何かを
死守しようとする決意か、

語るべき言葉を、
冷静に燃やしているのか、

怒りという熱が、
軽蔑と諦念に変化したのか、

あらゆる接触への
強烈な拒否か、


沈黙という行為は、
バラエティーに富む。

思考を即座に
理路整然と言語化できる者は、
おそらく、この機微には気付けまい。


◼️思考(感覚)>言葉(表現)

我々は、
体感した抽象的な刺激(思考)を、
具体的な音(言葉)に変える。

情報を伝達するためだ。

しかし、
思考を言葉に置き換えた時点で、
情報の大半(本質)はこぼれ落ちる。

「うまっ!!!!」
という貴方の味覚(=感覚)は、
どんなもの(言葉、映像)で表現しても、
その本質(味)を
誰かに伝えることは不可能だ。

その感覚(美味)を伝えたいなら、
その食べ物を誰かに差出し、
実際に食べてもらうしかない。

食の好みが異なり、
「うまっ!!!!」という共感を
得られない可能性は大いにあるが、
その本質(味)については
間違いなく共有できる。


◼️言葉と表現の限界

伝えたいことがある。
表現したい感情がある。

その感情を
言葉に置き換えようとする時、
何かが微妙に変わってしまうのが、
とてももどかしい。

言葉での思考を試みると、
言葉のしばりが
思考をがんじがらめにしてしまう。

思考(感覚)の全ては、
言葉に変換し切れないのだ。

言葉は、
絵や彫刻は、歌やダンスは、

表出される全てのものは、

表現者の感性の
不十分な一部

でしかない。


◼️言葉以外での思考

言葉を介することにより、
思考の自由度が
格段に下がる気がするのは、
きっと、語彙力の問題ではない。

「もったいない」
という言葉がない文化圏の人が、
「もったいない」的な感覚を持ちえない、
とは言い切れない。

「理不尽」という言葉を知らない者が、
理不尽な状況で、
割り切れない不快な感覚と
無縁でいられるハズがない。

思考は無限に(アナログ的に)
存在するのに対し、
言葉の稼働域には限界があるのだ。

我々は、思考(感覚)の大半を、
(無意識に)表現することなく、
(無自覚に)持て余している。

だからこそ、
自分の潜在的な感覚を表す何か、または、
自分の思考と合致する表現に出会った時、
人は、まさに【感動】するのだ。

それは、大概、美術館などの外で起こる、
偶発的で、超個人的な体験だ。


◼️思考の嗜好がジャンク

いつの時代も、
明確に語り示されるものだけが、
高々と祭り上げられる。

洗練されたものが、
美として、その存在を許される。

だが、私は、

カオスな状態に、
アナーキーさを含むものに、
ガラクタだと打ち捨てられた
ジャンクなものに、
どうしようもなく惹かれる。

完成された絵より、
その下書き段階の、
迷いと勢いを含んだ線に、
たまらない魅力を感じる。

矛盾や破綻が微塵もない
キレイに完結された物語より、
ツッコミ所や議論の余地が残る
未完の物語の方を愛してしまう。

きっと、
それら未完なもの(の一部)が、
私の原始的な「何か」を触発し、
言葉とリンク(=表現)できずに、
私の中で漂っている「何か」と、
共鳴するからだ。


◼️言葉が優位な世界で

言葉を語らぬ者は、
雄弁に語る者より、
思慮が浅いのか。

画力に欠ける者は、
音程が取れない者は、
リズム感がない者は、
芸術を理解できていないのか。

アウトプット(言葉)のみが
すべての判断の指標となり得るのか。


物理的な力(暴力)に
対抗できるものとして
言論(言葉)が挙げられるならば、

理路整然とした強者の言葉に
異を唱えられるのは、
言葉の源泉である思考(感覚)であろう。

ありとあらゆる思考を巡らせる際、
思考(感覚)⇔言葉(音、表現)
という変換過程である場合、
人は、沈黙という態度を示す。


◼️言語コミュ力を超えるもの

失意の底で、
自我を手放しているのか、

意思の断片を
手繰り寄せているのか、

心に秘めた何かを
死守しようとする決意か、

語るべき言葉を、
冷静に燃やしているのか、

怒りという熱が、
軽蔑と諦念に変化したのか、

あらゆる接触への
強烈な拒否か、


沈黙は、承服や納得といった
【同意】のみに非ず。

沈黙とは、時と場合と、人によって、
無限の意味をあわせ持つ。

沈黙という行為、

実は、非常に、
バラエティーに
富んでいるのだ。

(そして、非常に厄介な反応だ)


言わなければ分からない」という言動は、
相手の言語コミニュケーション能力不足を
指摘したつもりでいても、

実際は、

ノンバーバルコミニュケーション能力、
相手の立場を考慮する思いやり
客観的に状況を把握する推理力、等、
言語理解能力以外の能力を、
持ち合わせておりません。

と、己の能力欠如を自白する行為だ。


対人能力(人間性)が最も試されるのは、
沈黙に対峙した瞬間なのである。


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