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東京献血奇譚〜中学生 東雲沙梨の場合〜【短編小説6683文字】

「世の中って本当不公平過ぎる」
陸上の部活からの帰り道、東雲沙梨は溜息まじりにそう呟いた。

14歳、中学二年生。大人にとっては「まだ若いんだから」となる年齢だが、彼女たちにとっての一日、一週間、一か月、一年は、大人のそれとは比べ物にならないほど長い。

沙梨の心にかかっている霧の原因は、家庭。何より母親だ。

物心つく前に両親は離婚し、父親の顔は見たことがない。顔は母親似だが、目、鼻、口、一つ一つは同じパーツなはずなのに、配置が違う。銀座で働くホステスである母は四十歳になった今も若く綺麗なのに、沙梨はと言うと鏡に映る自分の顔を「失敗した福笑いみたい」だと感じ、見る度に嘆いた。下手くそな神様が作った失敗作だと。だから「お母さん似だね」と他人に言われる度に傷つくのだ。「似てるってだけで、アタシはブスじゃん」、そう思うのだ。

勉強は出来た。スポーツだって大体こなせる。でも、母はどちらも苦手。それはきっと、会ったことのない父の遺伝子だ。だから沙梨は、人より何かで秀でることも嫌だった。知らない男の血を感じることに、嫌悪感しか得られなかった。「それが沙梨らしさじゃない」なんて他人事のように簡単に言う母が沙梨には理解出来ず、苛立ちを募らせるばかりだった。

陸上部では女子のエースであり、得意の走り幅跳びで都大会に出場した。けれど、上位選手との差は歴然としていて、自分の中途半端さが嫌で仕方がなかった。喜ばない沙梨に対して、先輩や同級生が呆れているのはわかっていた。それでも、周りがどう思おうと関係ない、嫌なものは嫌なんだと、どんどん自分自身を追い込んでいった。

「アタシって本当に何もかも中途半端だ。何をやっても何かが欠けてる欠陥品。本当嫌だ。マジ死んじゃいたいよ」思っていても、同級生からしたら贅沢な悩みなのはわかっている。相談する相手もいない。だからこそ、余計に苦しいのだ。

トー横に行くような同世代の子達の気持ちはなんとなく理解出来た。求めているのは解決じゃなく、共感。大人の一方的で的を射ない説教はうんざりだった。だが一方で、バカだなぁと蔑む気持ちもある。あんなとこ行ったらクズの食い物にされるだけじゃん、と。どちらにも振り切れない心。苦しい、苦しい。

部活が終わって帰るのは18時頃。空はすっかり暗くなってしまったが、街灯やネオンの人工的な灯りの下を、人々や車が忙しなく往来している。人混みに混ざり、いつも通りに駅前の道を歩いていると、真っ白な車体の大型バスが停まっていた。脇に設置された看板には赤い十字のような紋様と「あなたの血を分けてください」という文字が無機質な明朝体で書いてある。ずいぶんあからさまな言葉だなぁと感じたが、見た目から献血車だろうと思い、疑問は特に感じなかった。

「死にたい」なんて思ってみても、行動に移すような覚悟はない。リストカット代わりに血でも抜いたら、もしかしたら何か変わるかななんて淡い想いが過ぎり、興味本位でバスに近づいた。中学生だし生徒手帳しかないけど大丈夫だろうか、などと幼い不安を抱えながら。

「どうぞ」
バスの入口にはアイドルやホストかと見まごうイケメンの青年が、白衣を着て立っていた。
「あっ、あ…、アタシ中学生なんですけど大丈夫ですか」沙梨があたふたしながら言うと、
「持病が無ければ大丈夫。血を抜くだけだから」爽やかに微笑みながら、青年が返答した。敬語ではないが、優しさが感じられ、声まで格好良い。
「中で簡単な受付を済ませて、荷物を置いたら奥の部屋に行って下さい」
さっきまでの陰鬱とした気持ちが嘘のように、沙梨の心は高揚していた。

受付に進むと、また違ったタイプのイケメンが座っていた。青春映画の主演にでもなれそうな、垢抜け過ぎていない正統派のイケメンだ。
「こちらを読んで、署名欄にサインして下さい」
言われるがままにサインをする。夢見心地の沙梨には、その誓約書に何が書かれているかなんてどうだって良かった。

思春期真っ只中の沙梨にとって唯一の心の拠り所は、テレビの向こう側のアイドルグループだった。同級生にも良いなと思う男子はいるが、リアルな男には警戒心が先に立つ。それに比べてアイドルは、キラキラと輝いていて、そして自分の想いを裏切らない。いつだって自分の為に存在してくれる。彼らがいることで、沙梨は不安定な心のバランスを保っていることができた。

荷物を指定された場所に置き、カーテンで遮られた奥の部屋へと進む。何処か異世界にでも行ってしまいそうな、表現しようの無い心のざらつきを感じながら。

「そちらにおかけ下さい」
カーテンを開けると、リムレス眼鏡をかけ髪をピシッと整えた、洗練された大人な雰囲気を醸す医師と、その隣には。腰の辺りまである黒髪と、切れ長な瞳が印象的なナースが待っていた。ナースの白衣は薄いピンク色。胸元が開いている上、スカートは短くスリットが入っていて、沙梨は「こんなエロい人本当にいるんだ。アニメとかだけかと思ってた」と、置かれている環境を忘れて思わず凝視してしまっていた。
「どうぞおかけ下さい」
「あっ、あ、すみません」
我に帰り、独り言のように誤りながら慌てて目の前の椅子に座る。と、ほとんど同時に「カシャン」という金属と金属の接触音が、静かな部屋に鳴り響いた。
「えっ」
腕と足首、そして胴回りが金具で拘束されていることは直ぐに認識したが、それが何を意味しているのかまでは、さすがに理解が及ばない。
「けっ…、献血ってこんなことするんですか」
そんな訳はないと思いつつ、初めてなことを理由に無知なふりをした。
「献血ですか」
リムレス眼鏡の医者がオウム返しをし、ナースは傍らで何か準備を始めている。そこには見たことのない太さの注射器と、ポリタンクに繋げられた献血器があった。いくら若くて無知とは言え、明らかに不穏な状況であることは沙梨にもわかる。
「献血…ですよね。入口の看板に血を分けて下さいって書いてあったし。こんなことされなくても、アタシ注射全然大丈夫です」
無意識の内に饒舌になる。
「献血ではありませんよー。血を分けてもらうのに、拘束しないとみんな逃げちゃうからさ。だってちゃんと契約書にサインしたんだもん、約束は守らないとダメよん。校則だって同じでしょ」
何かしらの器具を用意しながら、軽々にナースが言った。表情は何故か明るい。校則と同じとかウザいと思いつつ、それどころじゃないと思い直す。
「どれぐらい抜くんですか」
さっさと抜いてくれ。この現実味の無い空間から早く抜け出したい。
「全部」
沙梨は言葉を現実として受け止められず、口を開けたまま呆けた顔で固まってしまった。
「全部ですよー」
ナースの場違いに明るい声で正気に戻る。
「血、全部抜いたら死んじゃうじゃないですか」
「契約書に書いてあったでしょう」
「契約書って、でもアタシ死んだら殺人じゃないですか」
「それはアナタ方の国の法律ですから」
今度は医師が言った。アナタ方の国の法律、だって。これは現実なのだろうか。夢なら早いとこ覚めてほしいと沙梨は切実に願った。
「夢じゃありませんよー」
ナースが軽い口調で言う。その形で言われると、恐れよりも腹立たしさが先に来る。
「だって看板に赤十字のマーク、書いてありましたよ」
「あれは我々の国の紋章です。この中は我々の国として扱われるので、日本国の法律は適用されない。それは日本国政府も合意しています」
なんとか現実に引き戻そうとするが、沙梨はもう話についていけなくなっていた。
「あと、ご安心下さい、殺したりはしません」
「え?」
「アナタの血を頂きながら、同時に我が国で開発した代替品の人工血液を流します」
「じゃあ死なないで済むの」
沙梨は既に冷静を欠いていた。とりあえず生きられるなら、もう何でも良い。
「はい、死にません。ですが、このまま日本国で生きて頂くわけにもいきませんから、我が国で暮らして頂くことになります」
「えぇ…だってそんなの親にすぐバレるに決まってんじゃん。ふざけないでよ」
「ご存知ありませんか?この日本という国では、毎年8万人の行方不明者がいます。世界でも有数の平和国家である、日本でです。世界で言うと、考えられない数字になるのです」
医師が表情を変えずに説明した。
「だから何なのよ!日本の警察は優秀なんだからね。大体アタシの血なんてそんなに抜いてどうするの?輸血用じゃないってことでしょ」
「はい、違いますー。我が国では富裕層が『人血健康法』にハマっているのよん。飲むと肌ツヤが良くなり、血液もサラサラになり、免疫力を高め、ダイエット効果もあるんだって」
まるで健康食品の話でも聞かされているようだが、ナースが話しているのは、人の血の効能だ。
「若いほど高値が付くのです。美しく健康的なアナタならかなり高額になりますよ」
たぶん褒められているのだろうが、この状況で喜べるわけがない。
「富裕層がスポンサーですから、死ぬまでVIP待遇です。広い庭付きの邸宅に、奴隷も一人付きます」
ほんの少し心が揺らぎ、瞬間それは後悔に変わる。VIP待遇なんて言葉に惹かれてしまったことに。奴隷がいる世界なんて、それだけでロクでもないのに。

理解の追いつかない話を続ける内に、沙梨の心は疲労感を感じ始めていた。そんな時、不意に脳裏を過ぎったのは、大嫌いな母の顔。

母の梨花は、いつも沙梨の全てに肯定的だった。そして沙梨が梨花に対して憎しみの感情を抱いていることもわかっていた。一人親になったのは自分の若気の至りのせい。娘がただただ可愛いくて、両親の力も借りながら仕事と家庭を両立させようと頑張ってはいたが、時には想いが伝わらないことを怒りに変えてしまうこともあった。その度に後悔し、また沙梨を愛し、沙梨のことだけを考えて生きている。再婚も考えたことは有ったけど、沙梨が望まないだろうと思い、諦めた。中学校を卒業する頃にはホステスの仕事を辞めて、一緒に過ごす時間を増やそうと心に決めていた。

沙梨の頭に浮かんだのは、そんな優しくて美しい母の顔だった。時には喧嘩もするが、やりたいと強く伝えたら必ずやらせてくれた。部活を選ぶ時、陸上を勧めてくれたのもやはり母だった。父がいないことを責めてしまった時、母は怒らずに謝ったし、父の悪口を母から聞いたことは、ただの一度もない。母に対する怒りや憎しみの感情は、美しさへの嫉妬だったり、言ってもどうにもならない無い物ねだりなのだと、心の何処かではわかっていた。でも、反抗期の沙梨の心は、まだそれを赦せるほどに成熟していない。結局のところ、優しい母に甘えているだけなのだ。大好きな、美しい母に。

「アタシ帰りたい」
沙梨は決意を込めて、強い口調で言った。
「何故ですか」
表情を変えず、医師は冷淡に言葉を発した。
「何故って…」
「死にたかったのではないのですか」
「えっ?」
「アナタが死にたいと思ったから、我々に依頼が来たのです。需要と供給が一致しているから。アナタは死にたいのではないのですか」
思い当たる節はある。だから沙梨は、きつく胸を締め付けられるような気持ちだった。
「死にたくなんか…、死にたくなんかないわよ…」
か細い涙声で沙梨は言った。
「良く聞こえませんね。もう一度確認しますが、アナタは死にたいのですよね?」
「アタシ、死にたくなんかない!」
今度はバスの外にまで漏れ出しそうなほど、全身全霊を言葉に託し、叫んだ。
「死にたくないのですね?」
「うん、アタシ、生きたい」

「そうですか。承知致しました」
静寂に包まれたバスの車内。少しの間を置いて、医師が言った。表情には笑顔が浮かんでいる。
「承知?どういうこと」
沙梨は戸惑うことしか出来ない。
「アナタのように寿命を多く残したまま、自ら命を絶つ方がなかなか減らないんです。政治家と呼ばれる愚か者達は、ポーズとしての啓蒙活動しかしない。一部非営利の組織も活動しているようですが、上に立つ人間は結局損得勘定で考えるから、社会全体には浸透していません。営利組織であればなおのことです。我々の依頼主も、そんな状況にほとほと困り果てているのです」
さっきまでの冷淡な語り口とは違う、優しくて、真摯な口調。発するべき言葉が見つけられず、沙梨はただ頷いた。
「アナタのように『本当は死にたくない』と思っているのに、一時の心の揺らぎで自死を選択する方を、一人でも減らすことが我々に課せられたミッションです」
「じゃあ…、アタシ死なないで済むんですか」
「アナタがソレを望むなら」

医師がそう言うと、状況を察したように受付の男達がやって来て、沙梨は退出を促された。ミニスカナースもイケメン達も笑顔だった。沙梨が無事に帰ることを喜んでいるかのように。

外に出て腕時計を見ると、バスに乗る前から30分程しか経っていなかった。こんなに長い30分は生まれて初めてだと、溜息混じりに一人呟く。まだ先の長い人生だが、これから先もこんなに長い30分が訪れることはきっとないだろう。

緊張で体が強張っていたせいか部活終わりよりも疲労感を感じ、しばらくその場に立ち尽くしていた。ふと我に帰りバスの方を見ると、既にバスはいなくなっていた。まるで始めから存在しなかったかのように。

いつもよりゆっくりめに歩いて家へと向かう。母子家庭であり母の帰宅は夜遅いから、多少帰宅が遅れたところで沙梨を待つ者はいない。

そう思いながら歩を進め、自宅マンションの方を見上げると、自室の部屋に灯りが点いているようだった。沙梨の母は抜けが多いので「またママが消し忘れて仕事に行ったんだな」なんて思いつつ、何処かそわそわしながらエレベーターに乗り込み7階に上がった。

自宅の前に着くとやはり電気が点いている。ドアを開けると、母が仁王立ちで立っていた。けれど、表情は笑顔だ。
「遅い!こんなに遅いとは思わなかったわよ」
冗談っぽく言っているが、心配も入り混じった複雑な顔をしている。
「うんうん、ちょっと部活の後友達と話してて。って言うかママ、今日仕事じゃないの」
「今日はね、沙梨が初めて都大会に出場したからお祝いしたくって、休ませてもらったのよ」
出ただけで何の賞も獲れていない。沙梨にとってはただ苦々しいだけの、悔いの残る都大会だ。「ママって本当にアタシの気持ちがわからないな」と心の中で呟きはしたが、今はその想いが嬉しい。
「沙梨の好きなビーフシチューを作ったのよ。それに、ケーキも買ってあるから。アタシ用のシャンパンもね」
ちゃっかり自分のお酒を買っているのもママらしいなと、沙梨は思う。
「ママ、ありがとう」
素直にありがとうなんて言ったの、いつぐらいだっただろう。
「あらどうしたの、そんな素直になっちゃって」
沙梨はもう泣いていた。
「アタシ…、ごめんなさい。甘えてばかりでごめんなさい」
「アンタねぇ、子供は親に甘えてなんぼでしょ。あんまり酷い時はママも怒っちゃうけど、沙梨の場合は甘えてるのがわかりやすいの。だから気にしないで大丈夫」
「うん」
「でも、お手柔らかにね」
おどけて言った母の顔は、やはり優しくて、美しい。
「アタシ、お母さんみたく綺麗になりたい」
母に直接言うのは初めてだった。
「あら、ありがとう。でもねぇ、もうオバちゃんだから大変よ。白髪とシワとシミがトリオで攻撃してくるんだもの。沙梨はね、自分の活かし方をまだ知らないだけ。ママの子供なんだから、遺伝子はバッチリでしょ。パパだってイケメンなんだし。これからどんどん綺麗になるの。磨けば磨くほど輝くダイヤの原石なんだから。あー、羨ましい」
最後は冗談めかして誤魔化したけど、母が父について触れるのは珍しく、沙梨は父がイケメンだと聞いたのは初めてかも知れない。

シャワー浴びながら、アレは現実だったのだろうかと考える。間違いなく時間は経過してしたし、いくら部活で疲れていたとは言え、立ち寝をして夢を見るほどどうかしてはいない。奇妙で恐ろしいけど、知らず知らずのうちに自分で抱えていた重しに気づかせてくれた、あの白いバス。きっと実際にあったのだろうけど、母には話さず心に留めておこうと沙梨は思うのだった。それにしても、依頼主って誰なんだろう。気になるけれど、汗と一緒に全部シャワーで流した。

「ママのビーフシチュー、相変わらず美味しいね」
調子に乗って、普段は聞けない父のこと、ちょっと聞いてみようかな、なんて考える、沙梨の心の霧はすっかり晴れ渡っていた。

安易に「死にたい」なんて考えていると、あの白い大型バスが、アナタの前にも現れるかも知れない。

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