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2022.05.05

ちょっと感傷的な気持ちがものすごいので、この勢いで筆を取ったものの、整理がつかないときはいつも以上に突拍子のない思考が支離滅裂に散乱する。言葉を無理やり席に置いてみる、みたいな感覚で文字を探す。
私はよく分からないことがたくさんある。分かることがなんなのか、分からないことがなんなのか、結局物事を何も理解できていないことだけ理解しているような感覚で思考が巡る。何について思考を馳せても、たどり着く先はソクラテスだ。
私は恋、愛、ジェンダー、とにかくそれに関わる周囲の概念がピンと来ない。分からない。私の感情を私の言葉で定義するのに苦労して、ここまで来てしまった。

個体としての人間が好きで、知りたくて、理解したくて、関心は愛だと思っている。
私が言う愛ってやつは、あなたを大切にしたくて、あなたが私に対して発してくれる言葉ならどれも取り零したくないくらい尊くて、あなたが話すのを聴くのが好きで、私の話をあなたに聞いてもらうのも幸せで、この関係が続く努力は惜しくないし、あなたが思い出にいる私の話を聴く度に楽しそうで嫉妬するくらい、私の思い出にいるあなたが楽しかったらと願わずにいられなくて、あなたが胸痛むときはその痛みを分けて欲しくて、あなたが私の痛みに手を伸ばそうとするだけで心震えるくらい嬉しいような、そんな感情全部を引っくるめてだ。
愛に色の違いはあるかもしれない、温度の違いもあるだろうし、そこに込められた湿度だって違うだろう。
でも、どうして世間ではこれを「恋愛」と「友情」のふたつにカテゴライズされないといけないのだろう。
愛を渡したくても、相手がその置き場を持て余してしまうのを想像するだけでしんどくなった。
私に与えられる愛は、尊く誰にも取られないようにしまって、こっそり取り出してキラキラするそれを眺めているだけで幸せなのに。忘れないよう、慎重に言葉にしたいときもある。
でも、私が手渡したい愛は、最初にラッピングしないといけない。負担にならないよう、あるいは渡すことすら躊躇してしまう。
愛の置き場所を見失ったものを抱えて、迷子みたいに帰り道をまっすぐ歩けなくなった。

と、感傷的だった気持ちを一回書き殴って時間を置いてみたら、やけにすっきりした頭でひとつの感情がすとんと落ちてきた。
いや、でも、私ってやつは、それでも自分を選ぶでしょう?

この前聴いていたポッドキャストで話していたテーマが興味深く、私自身ずっと考え込んでいるものがある。
人生を生きる上で、何を得るために生きているのか、というものだ。
「目標を叶えること」「人との関係」「楽しみ」という3つの中で選ぶなら、どれにいちばん近いかということを話していて、ずっともやもやしている。
聴いたときは直感的に、私は「関係」をいちばん重視しているんではないかと思ったけれど、それから人と会って話す度になんか違う気がするという、自分の中で得体の知れない違和感がぐねぐねと口の奥で動いているような感覚になっている。
なんのために生きなきゃいけないのか、急に見失ってその場で蹲って時間が過ぎるのをただ耐えてた時期があったけれど、そのときはただ誰かに会うことが本当に負担だったし、自分にまつわるあらゆる縁が切れてしまえばいいいと本気で思っていた。
どうやって立ち直ったかといえば、ただ毎日毎日やることを消費して、夜が来て、また朝が来ればそのときやらなきゃいけないことをやって、、、というようにタスクをこなすことを続けていくうちに生き抜くことに成功した。
今自分が生きる上で、では何がいちばん動力になっているのかといえば、案外私は自分に課した「目標」ではないかというような気がしている。
「楽しみ」というのもあまりピンとこないのが、私が大した快楽主義者ではないし、刺激物は好きだが、それ以上に「無気力でいたい」「何もしたくない」という欲求が上回る。

という話が冒頭に戻り、私は恋愛を「所有欲」と因数分解して理解しているのだが、(厳密に言えば、所有欲を互いに満たす契約を結ぶことが恋人だと思っている)私はこの定義の上で言えば恋愛感情を全く持たないし、誰かに執着されたり過度な関心を寄せられるのが苦手だ。
だけど、私の手元には愛がある。受け取ってほしい愛もあるし、受け取ってもらえなくても大事にしたい愛がある。
愛に対してフラットに接しながらも大事にしたい感情を持ちつつも、結局自分のことがいちばん大事な私は、愛に対しても軽薄なのではないかという疑心も持っている。
私の生きる最終目標が「世界中から放っておかれること」ではあるのだが、愛が相手ありきで相互作用を必要とする前提では、私は結局誰のことも愛せないのではないかという疑惑に。

一旦筆を置いてみても、結局私の解は「分からない」という振り出しに戻る。
自分の中に矛盾がいくつもありすぎる。
人間は本来群れとして生きていた本能として、孤立すると不安になるように身体ができていると前に本で読んだが、そういう人間の本能と、私個人の所有物として機能する感情の矛盾だろうか。
その反対作用を正したい欲求はあるけれど、こうして文字にするうちに矛盾を正してどうなりたいのか、という疑問も生まれる。

自分が手にしているものの正体が分からないまま、私は愛と信じて誰かに手渡そうとすることも諦められないだろう。
世間と自分との「愛」を巡る乖離に打ちのめされても、誰かを愛したいと思う気持ちすら、種としての本能なのだろうか。

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