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2021.08.22


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私の愛するエッセイのひとつ、ジュンパ・ラヒリ著の『べつの言葉で』。初めて読んだのは韓国で大学院に通っていたときで、自分が日本語と韓国語、ふたつの言語に感じていた孤独を代弁してくれたような衝撃を受けた。
このときは、両親の母語であるベンガル語にも、自分の生活言語である英語もどちらも自分の母語とは思えない筆者の気持ちに共感して、ひとつひとつ文字を追うだけで胸がいっぱいになった。
そして、急に読み返したくなって久しぶりに段ボールから取り出した。余談だけど、CDや本で溢れる私の部屋は段ボールに本がたくさん詰められている。本に申し訳ない……。
初めて読んだときは、その頃の自分がナショナルアイデンティティに悩んでいた時期だったこともあって、筆者の孤独な面に共鳴したのだけど、今読み返したら「イタリア語」と理解を深めながら感じたことのない自由を手に入れ、イタリア語の登場によってふたつの言語の力学が変化していく部分により惹かれた。
数年前の当時は、自分にとって筆者のイタリア語のような存在が英語なのかなぁと思っていたけど、読み返すと改めて全然違うと感じた。なぜなら英語は権威の言語であって、私は英語を勉強している間も全く自由を感じなかったし、むしろある程度できないといけないという強迫観念があった。英語を勉強することで自分の見聞きできる世界はたしかに広がっていったけど、そのことが自分を自由にしていると感じなかった。
しかし、今改めて読み返したときに自分にとって筆者のイタリア語のような存在ができたことが分かった。私にとって、中国語がそのような存在だ。
誰かの期待に応えるために、あるいは虚勢を張るためでもなく、ただただ自由に言語の海を泳ぐことを許されたような感覚を得る。もちろん、私はまだまだ中国語の実力は赤子レベルで、著者のイタリア語を習得したレベルやかけた年月も比べ物にならないけれど。それでも、中国語を勉強しながら、知らない言語を知っていく楽しさを初めて感じている。
それに、ベンガル語、英語、イタリア語の三角関係のように、日本語、韓国語、中国語の三角関係が私の中で出来上がっていく。中国語は日本語にも韓国語にも繋がっている言語であることは言わずもがなだが、不思議なことに中国語を学びながら日本語と韓国語を別の角度から見ることのできる視点を提供される。自分にとって好きとも嫌いとも言い難いふたつの言語に、新鮮な温度を与えてくれる言語。
あぁ、私はやっぱり言語が好きで、書くことも読むことも大好きだなぁって心の底から思った。



”わたしは書くことを通してすべてを読み取ろうとするから、わたしにとってイタリア語で書くことは、言語を習得するためのもっとも深く刺激的な方法だ、ということなのだろう。
子供のころから、わたしはわたしの言語だけに属している。わたしには祖国も特定の文化もない。もし書かなかったら、言葉を使う仕事をしなかったら、地上に存在していると感じられないだろう。”(59ページ)


”アイデンティティーが二つに分かれているせいで、またたぶん気質のせいで、わたしは自分が未完成で、何か欠陥のある人間だと考えている。それは自分と一体化できる言語を欠いているという言語的な理由によるのかもしれない。(略)わたしにはあいまいな二つの側面があった。わたしが感じていた、そしていまもときどき感じる不安は、役に立たないという感覚、期待はずれな存在だという感覚に由来する。”(73ページ)


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