冬のフロート
「この寒い時期にフロートを頼む奴がいる」
そんな話をされたのは職場の小学校から程近いカフェでの事だった。喫茶ルナはイギリス風の小さな建物で、職場からは徒歩五分、丁度裏門を出て右に軽く坂道になった住宅街を進むと様相の違う建物が出てくる。
いつか主人が「これはとあるブリティッシュタウン・テーマパークの主人が建ててくれたんだ」と言っていたが定かではない。
「ですが冬にフロートを頼む人はある程度いるんじゃないですか?寒い時期に冷たいものを食べると美味しいと言う人もいますし」
私が聞くと主人はそう言われるのを待っていたかのように「それがこれはワケが違うんだ」と言い、こんな話をした。
「そいつは1年ほど前から毎週金曜、決まって十九時にくる。そして夏にはホットコーヒー、冬にはコーラフロートを頼むんだ。後は何も注文せずに窓をぼーっと見てる。若い男でね。一度話しかけてみたんだ、お仕事は何を、ってな。そしたら“見守り屋です”ときたもんだ。それっきりお気になさらずと言って話していないが。な、気になるだろ?」
確かに気になった。夏のホットコーヒーと冬のコーラフロートと、それを頼むのは聞いたこともない「見守り屋」をやっている若い男性。
だけれど少し引っかかることがあった。
「夏のホットコーヒーは普通だと思います」
これがもし意図的ならば私ならホットココアを選ぶと思います、などと半ば文句にも聞こえるような事を言うと、主人に「それは本人に聞いてくれ」ともっともな事を返され、気になるなら明日も来るだろうから、と言った。
※
「どう思います?」
「…僕に聞いてます?」
「志摩先生以外いないですよ」
丁度図書室の本の整理をしているときに、三年三組担任の志摩先生がきていた。志摩先生は図書室によく来るのだが、もっぱら今日も、明日の授業で使う本を司書である私の方でピックアップして欲しいとの用事だった。
早く見つかりそうだったので、待ってもらう数分のついでに今日のお昼での出来事を話したのだが、志摩先生は丸眼鏡の奥で目を細めてくすくすと笑い「どうと聞かれましても、世の中には色々な人がいますから」とどっち付かずの返事をした。
そしてなぜかこちらが質問される形になる。
「槇さんはどう思います?」
「私ですか?私は…冬のフロートの理由もあるかもしれませんが、何より”見守り屋”がどのような仕事をしているのかとても興味がありますね」
夏のホットコーヒーは普通だと思いますが、とも付け加えた。
志摩先生は眉を上げて「ほう」といい、
「それを聞くと僕も気になってきました」
と言った。
私が明日夕食がてら喫茶ルナに赴く旨を伝えると、いつのまにか志摩先生も同行することになっていた。
「思わぬ好奇心を見ました」
昨日貸し出しをした「綺麗な虫の図鑑」「綺麗な鳥の図鑑」「綺麗な魚の図鑑」が子ども達に好評だったらしい。どれも見開きページで一種類紹介されており、左には写真、右には種類、特徴、生息地などが記載されているシリーズ図鑑だ。
出版元によると”大人のための図鑑”と言う事らしい。どうしてそれが小学校の図書館の本棚にあるのかはさておき、子供の好奇心をそそるには十分な内容とボリュームである。私がその図鑑を見つけたのはつい1ヶ月前で、奥にある図鑑スペースの書架の、一番下に静かに置かれていた。
「教科書だと味気ない写真ばかりですから」
子どもの興味を引くにはまず美しくないとね、と志摩先生は言う。なんだか寂しげのある言い方で気にはなったが「そろそろ行きますか」とケロッとした顔で帰り支度を始めたので私も急いで支度をした。
初めて帰りに裏門から出たがあまりにも暗かった。左にはかろうじて大通りが通っているが、昼間でさえ車通りの少ない道路なので、頼りにはならない街灯がぼうっと下を照らすだけだった。進む道は右の住宅街なのでどんどんとその光も遠ざかっていく。静かな道はなぜか自然と無言になってしまい、足音だけが響く。
一分も歩くと、半月だけが私たちを照らしていた。
「明日は雨ですかねえ」
志摩先生がこんなことを言い沈黙を破った。
「どうしてですか」
「月がほら、ぼやけているでしょう?こう言う日の翌日は雨が降りやすいんです」
そう言われて上を見ると確かにぼやけていた。
「雨だとまずいんですか?私も雨が好きというわけではないですけど」
志摩先生は、僕は困らないですよ、と笑って、
「雨が降ると言うことは傘がいるし、傘があると言うことは手元が一つ傘に使われ、手元が一つ傘に使われると言うことは子どもたちにとっては大変な一日になりそうだなあと。まあ、明日は嬉しいことに休みなんですがね」
と言った。
そうこうしているうちに喫茶ルナに着いた。やっとはっきりした光を浴びると同時に、夜に光る喫茶ルナはなんとも安心感があった。
時計を見ると十八時五十五分だった。もう”見守り屋”は来ているのだろうか。志摩先生は「緊張しますね」といって私の後ろに続いて店内に入った。主人が少し驚いた顔をして出迎える。
「いらっしゃ…あれ槙さんじゃねえか。ほんとに来たのか」
「はい。こんばんは」
軽く周りを見渡すと、小さな店内には誰もいなかった。続けて志摩先生も「失礼します」と入る。扉は小さめなので志摩先生は少し屈んで入った。
すると主人が素っ頓狂な声をあげた。
「あ?槙さん!」
「え?なんですか?」
後ろには志摩先生がいる。夜に男女二人で食事。何か勘違いしたのかもしれないと思い訂正をする。
「あ、違いますよ、同じ学校に勤めてる人で」
「違うよ!」
「え?」
後ろを見る。すると志摩先生は堪忍したように、それから少しいたずらっぽく両手を上げて「はい」という。そして
「ここに来る際、そういえば誰も道案内しませんでした」
と笑って言うのだった。
※
「いやちょっとした好奇心でした」
志摩先生は目の前のコーラフロートを、悪戯が成功した子どものような目で飲みながら言う。
「にしてもですね……」
私は項垂れていた。まんまと騙された恥ずかしさと悔しさが後追いでくる。温かいコーヒーだけが私を慰めていた。
「騙すつもりなんてこれっぽっちもなかったんです。つい、気になると言われたもんですから。僕は当然今日もここに来るつもりでしたし、どうせバレるならと思って。ですが申し訳ないことをしました、意地悪のような事をしてしまってすみません」
すみませんと言うものの志摩先生は楽しそうだ。主人はというと、驚いた驚いた、と言って気を遣ってくれたのか、足早に閉店の看板を掲げていた。志摩先生は少し安心したようだった。
「見守り屋と言うのはね、そのままの意味です。教師ですから」
なんとも志摩先生らしい例えである。だがしっくりはきていた。それは志摩先生だからなのかもしれない。
私の疑問は必然ともう一つに向く。
「昨日、私は冬のフロートに理由があるかもしれないと申し上げました。ですが、単に暑い時期に温かいものを飲み、寒い時期に冷たい飲み物を飲むのが好きな方なのだろうとも思い込んでいました。志摩先生の言うように世の中には色々な人がいますから」
「そうですね」
「…ですが志摩先生は、職員室でホットコーヒーを飲まれます。夏は冷たいお茶を持参しています」
「はい…...なんだか取り調べ室のようです」
月のぼんやりした光が、刑事ドラマでよく見るデスクライトの役をしていた。カツ丼の代わりがコーラフロートという感じだろうか。
温かいコーヒーの所為か徐々に色々な感情が溶け込み冷静になっていくと、今大変失礼な状況なのではないかと思い始めた。
志摩先生から自首したものの、ここまで来て、踏み入っていいものかわからず自然と神妙な顔になっていた。
なぜでしょう、と私は小さく聞く。そんな私とは裏腹に志摩先生は穏やかに話し始めた。
「なんてことない、ただの自分探しです」
「冬のフロートで、ですか」
「はい」
ピンとこなかった。それが顔に出ていたのだろう。志摩先生は昨日と同じようにくすくす笑ってから続けた。
「ふと、毎日が淡々と続くことに疑問を持ち始めたときがあったんです。教師という仕事は好きです。目の前にはいつも、好奇心や興味や反抗や自由が慌ただしく繰り広げられます。子どもというのは不思議で、大人に無条件に様々な世界を見せてくれる。だけどそのギャップに気づいてしまうと駄目でした。途端に自分の人生について考え始めたんです……あぁ、重たい話じゃないですよ、顔を緩めてください」
私は眉間に皺をよせていたらしい。志摩先生は私にコーヒーを薦めた。ふと見ると、志摩先生の指先は私とは違い少しだけ赤かった。志摩先生だけが違う世界にいるようだった。温かいコーヒーを一口飲み、続けてください、と促す。
「それでね、ある日自分の内を沢山書き出してみたんです。髪をレモン色にしてみたい、旅に出てみたい、外で大声で歌って踊りたい、コンビニで立ち読みをしてみたい、雨の日に傘を差さないで歩いてみたい。まだまだありますが、ともかく」
フロートを一口飲み、
「なんだか全て、自分に反抗的なんです」
と言った。
目の前の”志摩先生”が”志摩さん”というひとりの青年になっていくようだった。
私の知る限り、志摩先生がそんなことを考える人だとは夢にも思っていなかった。誰もがそう思うくらい、志摩先生はずっと”志摩先生”なのである。志摩先生はそういう人のはずなのだ。少なくとも私の前では。
私は驚いていた。
「続けてください」と言うしかなかった。
「…僕はそれはもう、反抗期もないような子どもでしたから、どうすればいいのかわかりませんでした。それでも無視することはできませんでした。むしろ違う自分がいるようで、少しワクワクしたんです。それならいっそのことそれを見つけ出したいと思いました。ただ、僕は教師で、教師としてある程度正しくなければいけないし、規律は守らなければならない。静かに反抗的になれる方法を探したんです。そしてそれを見守ってくれる人も僕は欲しかった。僕が子ども達にしているように。それで思いついたのが”冬のフロート”でした。僕はね、半ば地球に逆らう事にした愚か者です。未だに見つけ出せないまま、一年が経ってしました」
一呼吸おくと、志摩先生は「情けないでしょう?」と言った。
私は「いいえ」とだけ言って、しばらく冬のフロートを見ていた。なぜだかあの綺麗な図鑑も重なって見えた。
気づけば月はすっぽりと雲に覆われて見えなくなっていた。
「それはこの店が心地よくって」と主人から”一年も燻っているのなら方法を変えたほうがいい”と言う指摘をされた志摩先生が言った。主人はウゥンと微妙な顔をした後、少し興奮気味に”夏のホットココア”と志摩先生専属の”見守り屋”継続の約束をした。
店を出るとパラパラと雨が降っていた。志摩先生の予想が早めに当たってしまった。
主人から傘を貸そうかと聞かれたが、私は断る事にした。
「明日はお休みですもんね」と志摩先生が無邪気に言った。
Claude Heath
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