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伯父の手紙

 伯父は騒がしい人だった。
 いつもうちの喫茶店に来ては、やれあそこの歯医者は痛いだの、パチンコで今日はいくら擦っただの、自分のやっている古書店がうまくいっていないだのと、誰も聞いていなくてもとにかく喋っていた。来るときにはいつも、左胸のポケットにいつの時代のものかも知れない飴色のパイプを挿していた。

 伯父は下戸だったのでいわゆる飲み仲間というものは持っておらず、毎夕自分の店を閉めた後うちに来て、バタートーストとコーヒーとだけ頼んできっかり五百円で閉店の二十時まで居座った。そのため伯父の話し相手は、仕事終わりのサラリーマンか、参考書を開く学生か、ふらりと入ってきたカップルか、たまの休日に両親の手伝いをする僕くらいだった。
 散々喋って、そして店を出るときにやっとパイプに火をつけ、プカプカと吹かしながら帰る。それが伯父の日課だった。
 そんな伯父を両親は黙認していた。歓迎もしないし、拒絶する事もなかった。
 僕はというと、そんな伯父が少し苦手だったかもしれない。


 伯父の死は近所の学生によって知らされた。
 丁度本を買いに店に行ったところ、奥にあるレジカウンターでうつ伏せになっている伯父がいて、何度話しかけても応答がなかったため慌ててうちにきたらしい。実際には、慌てると言った表現は正しくなく、たった数十メートル先の喫茶店までどれだけの力を振り絞って走ったのか想像し難い程息を切らし、震えながら訃報を訴えた。
 あまりの突然に驚き、父に店を頼み僕と母とで急いで見に行くと、伯父は確かに息をしておらず、その傍には飴色のパイプがまだ火を灯したまま右手に握られていた。

 のちに伯父を診ていた主治医から、2年ほど前から心臓を患っていたと聞いた。
 親戚一同、何も知らされていなかった。


 伯父はその学生によくしていたようだった。十九歳の彼は“ホヅキさん“と言った。
 はじめは”少し話に付き合えば本を割引”という名目だったらしく、彼はそんなふうに通い詰めるうち、最近では伯父と話をするついでに本を買っていたくらいだ。と楽しそうに話してくれた。真っ先にうちへ駆け込んできた理由も、伯父から色々と聞かされていたからだった。

「本当に、よくしてくれました」
 通夜の場でホヅキさんは大人びた表情で穏やかに言った。まっすぐと伯父の遺影を見る横顔は哀しげで優しかった。
「そうですか、それはどうも、こちらこそお世話になりました」と頭を下げると、
「いえ、こちらこそ」と返答が返ってきてしまい、思わずまた「こちらこそ、いえ」と小さく僕が言うと、ホヅキさんは話を変えてくれた。
「僕の名前と初恋の方の名前が一緒だったんだ、って。よくその話をしていました」
「……初恋、ですか」
「ええ、でも僕のは名字で、その初恋の方は名前です。多分、それで色々世話してくれたのかなって。それでいつの日か申し訳なくなって、僕がなにかと”すみません”と言うもんだから、それにうんざりしたようにいつも”いいんだ”って二回だけ言うんです」
 ホヅキさんの話も上の空に、僕は”初恋”という淡い言葉を反芻していた。
 あの騒がしかった人が静かに恋をしていた——————。

「それでね、あのパイプ、」
「——はい?」
 寝起きのような声で返事をする。

「その初恋の方からの贈り物だったんですって。それをもう四十年以上ずっと使っていたなんて。聞いたとき、なんてロマンチックなんだろうって驚いちゃいました」
 十代の少年の顔で笑って言う。
 プカプカと煙が浮かぶさまを、僕は思い出していた。

  ※

 十月も中旬で寒々としたある日、伯父は変わらずうちに来てバタートーストとコーヒーを頼み、きっかり五百円で店のあちらこちらを移動しながら閉店まで誰かと駄弁っていた。
 ただ違ったのは、その日はなんだか妙に元気が過ぎていた。「伯父さん、今日はなんだかとても張りきっていますね」と珍しく自分から話をしたのをよく覚えている。
 伯父は少し考えるような素振りをしてから、
「ああ、まあなんだ、今日は特別な日なんだよ」と言った。
「特別な日?」
 僕が聞き返すと伯父は冷めたコーヒーをちびっと飲み、まあ、その、なんだ と前置きをして
「妻の命日なんだ」
と左胸に挿したパイプを人差し指でトントンと優しく叩いた。
 僕はさすがに恐縮したが、伯父は「いいんだ 」と二回言うだけだった。
 

 閉店の時間になり店内で作業をしていると、母からちょっとした買い出しを頼まれた。
 夜の冷え込みで寒かったのもあり、歩いて二十分かかるスーパーにわざわざ行く程でも無いように感じられたので、いちばん近いコンビニエンスストアに行くと伝えると「ついでに煙草も」と父がしゃがれた声で言った。

 その日の夜は澄んでいて、空を見上げるとどこまでも見えそうな、そんな気がした。はーっと白い息を吐いてから歩き始めると、すぐ前に人影があった。のっそのっそと肩を揺らし歩いている。
 特徴的な歩き方から伯父だとすぐにわかった。案の定パイプの煙が香りだけ残して顔を掠めていく。
 話しかけるのもどうかと思い、自然と伯父の跡をつける形で同じ方向にあるコンビニへ向かった。

 ———静かだった。
 ただ静かに歩く。
 僕は目の前に居る伯父が、本当に伯父なのかわからなくなっていた。————伯父が近くにいて、こんなに静かだったことはない————。
 「伯父か、伯父でないか」と長考しているうちに、目的地のコンビニはとうに過ぎ、なぜか僕は伯父と夜の田んぼ道を歩いていた。穂がつきはじめた稲が、僅かある風に吹かれて揺れ、チカチカと光を反射していた。

「おう、こっちには用はねえはずだろ」

 途端に伯父が振り向いて言った。
 僕はそこでやっと、自分が既に目的を失っている事に気がついた。あたふたともう見えなくなったコンビニのある方を向き、そしてまた伯父に向き直り「すみません」と思わず謝った。
 伯父は、「いいんだ」と二回言って、帰れともついて来いとも言わず、また前を向いて肩を揺らしながら歩いていった。煙は相変わらずプカプカと浮いていた。

 なぜだか僕はしばらく伯父の横で一緒に歩いた。
 伯父の声を不思議と隣で聞いていたくなった。話はいつも通りの他愛のない話だったような気がする。それこそ、やれあそこの歯医者は痛いだの、パチンコで今日はいくら擦っただの、自分のやっている古書店がうまくいっていないだのとかいった世間話だった気がする。詳細なことは思い出せないのに、心地の良い時間だったことは鮮明に覚えている。
 僕は伯父が話を区切るたびに、おぉ、はい、へえ、などと相槌だけうって、静かな夜の中ぽつぽつと話す伯父の声を聞きながら、煙が浮かび上がる姿をただ見ていた。

 唯一覚えているのはたった一行、
「これはな、手紙なんだよ」
と澄み切った夜空に舞い上がっていく煙を、僕と同じように見上げて言った言葉だけだ。
 満月の夜だった。

  ※

「ホヅキさん?あら、兄さんのお嫁さんと同じ名前ね」
 母は赤くなった目をしぱしぱさせながら言った。
「らしいね。ホヅキさん———学生の彼は名字だったけどそれでも気にかけてくれたって感謝してたよ。案外世話好きだったのかな」
 僕は香典の整理をしながら目にした“保月学”と書かれてあるのを見つけて引き抜き、母に渡す。「同じ字か?」の意図を察したのかすぐに
「違う字ね。まあ名字と名前だからねえ」
と言い、炬燵の端に積まれた新聞紙の山からチラシだけ引っ張って、その辺にあるボールペンでさらさらと何かを書いた。それを僕の方に寄越すと、細い字で“穂月”とだけ書かれていた。

 ————これはな、手紙なんだよ————

 鈍く光る田んぼの中からひとつふたつ、プカプカと煙が舞い上がっていく。
 あの夜、伯父はどんな顔をしていただろう———?

 ふと、幼さを残した十九歳の彼の顔を思い浮かべた。

C.Heath

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