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なぜヲタクの話は高速化するのか?

遡ること約一か月。

年明けの余韻も残る1月上旬、ハロヲタ友達のKから『久々に会えないか?』と連絡があった。

その一言で(さては話したいネタ溜まりすぎて爆発寸前だな?)と全てを察した僕は即レスで了承の旨をドッキドキ!LOVEメール。

かくして「趣味関連にだけフッ軽」という分かりやすいヲタク特性を発揮し、翌日には再会の機が設けられた。

そして再会を果たしたKと「ハロショ(※ハロプロ公式ショップ。ほぼ生写真屋)からの居酒屋」という死ぬ前に見る夢のような回しに成功し、2人で座について喋っている時にふと思った。

「(コイツめっちゃ喋るやん…)」

思えば普段それほど饒舌な印象のないKがその日見せたマシンガントークは「このままゆっくり死ぬんじゃないか?」という狂気的なもので、熱量・速度ともに異常なレベルだった。

こちらがちょっと油断して飲み物のメニューを見ていると、「近況エピソード→直近で参加したライブの席位置→ライブの内容→高まったポイント→高まった理由とその考察→帰り道で近くの人が話していた感想→それに共感したポイント→共感した理由とその考察→そもそもなぜ自分が今ハロプロへの熱量が高いのかの説明→関連する別の近況エピソード…」と無限に捲し立ててくるので、こちらも相槌を打ちながら必死に食らいつくのがやっとだった。

そんなKとの高速餅つき的な会話の応酬を経て改めて思ったことがある。

なぜヲタクの話は高速化するのか?

これは太古の昔から語り継がれる壮大な謎であり、同じヲタクとしてこの問いをnoteでネタにしないのはヤムチャが天下一武闘会で一回戦を突破した時くらいありえないよ、というわけだ。

そうして僕なりに考えてみたところ、主に3つの理由があるのではないかと思った。

①話したいことは無限にあるが話せる相手は少ない

まず一つ目は「話したいことは無限にあるが話せる相手は少ない」という点。

すなわち「話したい事の多さ」と「話せる相手の少なさ」というミスマッチ問題だ。

これは例に挙げたハロプロなどアイドル関連に顕著だが、人が情熱をもって追いかける趣味領域では受け手の脳内に膨大な「お気持ち」が湧き上がり、そしてその「お気持ち」が感情の器から溢れると「誰かに話したい」という衝動に変わる。

それを「可愛い/尊い/エモい」というボキャ貧トライアスロンで駆け抜けるのもまた一興だが、理屈生まれ理屈育ち文系っぽい奴は大体友達なヲタクの語彙を駆使して有り余る思いの丈を不足なく言語化したいと願ってしまうのも悲しきヲタクの性というもの。

ゆえにヲタクは常にこの「話したさ」という手榴弾を抱えて生きているようなもので、それらを安全に処理できる場所としての「話し相手」を求めている。

しかしここでネックなのが、その「話し相手」というのも単に話題を共有できる前提知識を持つ人なら誰でもいいというわけじゃなく、それこそ人柄や感情移入するポイント、ならびに解釈や熱量や好意の表現方法など様々な要素が絡んでくる。

それでいて互いの持つ興味の範囲・温度・距離感・着眼点…etcに共鳴できるかどうかは本当に相性の世界で、それら多くの要素がピタリと合う相手との絶対的な空間でこそヲタクの「話したさ」は全力全開で炸裂させることができる。

また基本的にヲタクという生き物は変なところでシャイなので、仮に条件に合致する「話し相手」と一緒に居ても、その場に別の第三者が同席していると上手く「話したさ」を消化できないというケースもある。

実際、Kに「前に〇〇さんと3人で話した時はそんな喋ってなかったよね?」と聞いたら、『3人でいるときに〇〇さんの分からない話をするのも悪いので遠慮していた』と言っており、なるほど常識的な気遣いのデキる奴だと感心しながら引き続きクレイジーなマシンガントークを楽しんだ。

今でこそネット経由で趣味友達を見つけるのは容易になったが、特定の趣味に関してお互いフルパワーで喋り倒せる相手というのはそう簡単に見つかるものではない。

ゆえにこの「話したい事の多さ」と「話せる相手の少なさ」の問題は常に付きまとうので、いざ話せる機会を得るとヲタクはここぞとばかりに高速で喋り倒してしまうのだろう。

②最小限の言葉で話すのでラリーが高速化する

二つ目は「最小限の言葉で話すのでラリーが高速化する」という点。

ヲタクは謎の選民思想からか、ヲタク同士の会話において略語や各ジャンルのヲタク用語を当然のように多用して最小限の文字数で喋る傾向がある。

要は各自の得意分野だからこそ成り立つ「1を聞いて10を知る」会話のリズム感が心地いいのだ。

これは深い部分まで前提知識を共有している一種の共犯関係だからこそできる離れ業で、当事者からするとまるで自分たちにしか理解できない暗号を駆使して喋っているような陶酔感があるものの、周囲から見た印象はだいたい「キモい」で一蹴されるものだ。

しかし、普段ネットで目にするが口頭で使う機会のない略語やヲタク用語が当然のように通じる特殊な会話の爽快感は変に麻薬的なので注意が必要である。

とか書いてる割になんだかんだ僕もその快感に抗えていないからこそ「地平本願MV見返したら生田のおにぎり感に和んだ」みたいなことを安易に口走ってしまうのだ。

そしてそんな僕の発言を聞いて「モーニング娘。の『この地球の平和を本気で願ってるんだよ!』のミュージックビデオを見返したら9期メンバーの生田衣梨奈に先輩の新垣里沙のバスツアーに乱入して車中でおにぎり頬ばってた頃の初々しさがあって和んだ」という趣旨を瞬時に理解してくれるKのような優秀すぎる話し相手がいることがイケないのだ。まったく…本当に感謝しかない。

③肯定ベースで進むので流れが止まらない

最後は「肯定ベースで進むので流れが止まらない」という点だ。

これはヲタク同士の会話は多くの場合、共通の好きな対象について話題が展開されるので、基本的に肯定ベースでよどみなく話が進行するというもの。

要は最近流行っているディベートのように懐疑や論破といった逆ベクトルへの要素がないので、会話が同じ方向へ向かって進むのだ。

もちろん口にした情報に不備があった際に問い直したり訂正したりはするだろうが、基本的には互いに好きなものの好きな部分を自由に論じることがメインなので、そもそも会話の中に勝ち負けやマウントの要素が生じない。

この「各自が好きなものの話をして、それを互いに否定しない」というストレスフリーなやり取りは会話における一つの理想形だと感じる。

当然、話している当事者は楽しく、話題に上がった人や物についてもひたすら良い面が強調される。

以上の点を鑑みて総括すると、ヲタクの話に顕著な「肯定ベース」の論調は何気に多幸感の鍵ともいえる発想で、そうした優しいスタンスを前提に展開するからこそヲタク同士の会話は楽しくなり、そして楽しいからこそ限りある時間内により多くを喋ろうと異様な早口になってしまうのだろう。

そう考えるとヲタクの話の高速化にも多少は理解を示せる気がするし、ともすれば可愛らしさすら感じられるのではないだろうか。

これに対し「微塵もそんなことない。ただキモいだけだ」とおっしゃるそこの貴方へ。

最後にこれだけは言わせてほしい。

「僕もそう思います。」




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