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元気にキレよう!~『Mr.ノーバディ』感想

人間の感情で最も取り扱いが難しいのは「怒り」だと思う。

その点、生まれつき良く言えば「平和主義」、悪く言えば「事なかれ主義」な僕は、今日アラサーに至るまで明確に「怒った」経験が覚えている限り数回しかなく、その事実に「冷静な自分への誇らしさ」と「何事も俯瞰で見る冷めた性格への自己嫌悪」の両方を感じながら生きてきた。

また基本的に親しい人には不機嫌な姿を見せたくないので、「気持ちが乱れているな」と自覚した時はそれとなく人と距離を取ろうとする面倒な性格の僕だ。

そんな僕が例年になくジリジリとした不機嫌を保ち続けているのは言うまでもなくご時世的な影響で、より直接的に言えばコロナ禍を巡る政府の対応がまぎれもない原因だと言える。

ここで詳細について個別具体的に書くことはしないが、なんというか、一般大衆である自分の平凡な楽しみや娯楽が片っ端から制限されていく中で、その決定を下しているであろう政府関係者の振る舞いを継続的に見てきて、虚脱感というか無力感というか、そうした灰色の感情にいつしかすっかり苛まれている。

また一般的なサラリーマンの立場にある僕は、その他大勢の例に漏れず、土日に設定した楽しみを糧に平日の五日間をヒィコラ生きるような生活をこれまで送ってきたのだが、その楽しみを悉く直前で潰される経験を繰り返す中で、いつしか直近の予定を楽しみに思うこと自体が徐々に苦手になりつつあると気付いた。

同時に、そうして少しずつポジティブな感情が萎んでいくことを自覚してきた最近は、これまで「無力感」や「脱力感」や「呆れ」といった、どこか他人事的だった感情に少しずつ主観が根を下ろし、ゆっくりと明確な怒りに変わってきた。

とはいえ脊髄反射的な短文投稿になりやすいツイッター等のSNSで、そうした「怒り」を臭わせる発言をするのは慎重さを欠きやすい上に周囲にも悪影響なので、基本的にしない事に決めている。

なので、もしどうしても書きたい場合は一定の時間と文字量を使って書けるこうしたブログの形で認めることにしているのだけど、決して直接的に乱暴な言葉を吐きたいなどといった気持ちはない。

ただ、こと現代において無条件に敬遠されがちな「怒り」という感情について、その全てを型にはめて一概に黙殺するのではなく、個々人の考えにおいて「おかしい」と思ったことをちゃんと「おかしい」と言えるだけの環境は絶対に残しておくべきと感じる。

それでいえば少なくとも今の僕は、一連の政府の対応に「おかしい」と思うことが多々あるし、そうして少しでも「怒り」を表明している人を無条件に敬遠したり、また「よく分からないけど関わらない方が何となく無難」な「政治の話」に思考停止で距離を取ろうとする人々にも「おかしい」と思う。

仮にこのあと五輪が無事開催され大成功を収めたところで、そこに至るまでに感じた政府への違和感や、美辞麗句で煙に巻くばかりで一切それらを説明しようとしなかった不誠実への怒りは絶対に忘れないだろうし忘れるつもりもない。

と、散々脱線したが、そんな訳でここ最近は自分史上最も「怒り」という感情について思いを巡らせている時期で、そんなタイミングで近しいテーマを取り扱った映画が公開されていたので、無事営業も再開された最寄りの映画館に観に行ってきた。

『Mr.ノーバディ』

「一見普通の中年男がとあるキッカケでブチギレて…?」みたいな紹介文を見て、上記のような精神状態もあり直感的に「見てェ!」となり速攻で観に行ったその作品名は「Mr.ノーバディ」。

脚本が「ジョン・ウィック」の方だという情報を見て「ジョン・ウィックっぽいのかな?」と思いつつ、特に下調べや予習もせず見に行ったら思った以上にジョン・ウィックで僕のジョンがウィクウィクした、というのが素直な感想だ。

一見紳士的な主人公が野蛮で乱暴な男らしさをハチャメチャに発揮できるよう、それっぽい口実と機会を与えて結果90分弱でキッチリ受け手の溜飲を下げる展開を描き切る脚本は見事の一言なのだけど、それ以上に今の僕には、主人公の「怒り」の発露のさせ方とそのプロセスが大人なセクシーさを伴って胸に迫った。

まともに相手をする価値もない小悪党には執着しない一方、公共に害する明確な悪には毅然と立ち向かう。

そんな主人公のスタンスは派手さこそないものの気高く映り、見ているこちらに「怒り」の正しい使い方を教えてくれているようだった。

ともあれ、利己的なストレス発散をそれらしくパッケージする「怒りモドキ」は許せないが、そうした疑いをかけられることを恐れて、自身が感じた違和感を何の表明もせず心に留め置くのは精神衛生的に良くない。

決して他者を傷つける目的でなく、あくまで自分の中の違和感に自覚的でいるため、そして自分にとって大切なものに不当な危害を及ぼされないためにこそ、適切に「怒り」という感情と付き合っていきたいと改めて思った。

更に言えば、他人に対して何かを誤魔化すことは同時に自分自身をも誤魔化すような気がするので、たとえ他人と衝突しようが、自分の中の違和感は決して冗談にして誤魔化したりせず、一つ一つにちゃんと向き合おうと本作を観て思った。

ちなみに映画を見た帰りにドラッグストアで買い物をしたのだが、店員さんの袋詰めがあまりにも遅くて若干ピリっとするも、(もしかしたら今日ずっとレジ打ちをしていて疲れているのかもしれない)と考えたところでゆっくり気を静めた。

その時僕は思った。

「OK、これでいい。」

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P.S.
映画はこちらの観たいものを100%過不足なく提供してくれる内容で終始退屈せずに観られた。

それにしても「一見冴えないオジサンが実はキレるとヤバい奴で…!?」的なベタ脚本も、日本式に作ると内容の薄さに自覚的だからこその短尺の駆け足展開になりがちで、要するにすぐス〇っとジャパン的になっちまうのに対し、洋画が同様の脚本を扱うとコンパクトで見やすい90分の痛快アクション映画になるこの差はなんだろうと若干頭を抱えたくなった。

おそらくアクションや伏線どうこうといったギミックの話ではなく、BGMやセリフ回しや場面転換といった構成上の息遣いが、集中力の低い現代人の感性にピッタリ合うリズム感で組まれていることが大きいのではないか、とリズム感が悪く読みづらいあとがきを書きながらぼんやり考えた。

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