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「ゾンビランドサガ リベンジ」 感想:本作が描いたアイドルとは何か。

はじめに

ゾンビランドサガリベンジは2期ではありますが、続編ではなく2クール目と言った方が正しいです。
新たな物語としての続編ではなく、1期の12話に入らなかった物語を中心に描いています。1期の人気を受けて「リベンジ」を制作していることは間違いなく、「リベンジ」の最終回は1期を含めた全24話の最終回と考えるのが妥当です。
つまり、「リベンジ」は1期のカウンターでありながらも、お互いに同調して切り離すことのできない構成になっています。
「リベンジ」の真価はそこにあり、ここを誤解している方は多いと思います。(大抵の批判で見られる1期のテーマと少し違うから嫌だという批判は確かにその通りですが、制作側は確信犯的にコレを行なっており、「リベンジ」を1期の続編として捉えすぎている気がします。)

とは言っても、もちろん「リベンジ」にも続編としての要素はあります。
さくらに対する幸太郎の想い、愛と純子の友情、たえの成長、より迫力を増したライブシーンなどが該当します。
「リベンジ」には続編として楽しむにはこれらが十分なほど含まれています。
1期からのファンに対するサービス精神満点であり、期待のハードルは超えています。
その上で「リベンジ」には1期にはなかった要素が追加されています。最終回まで見れば、それが何であるのか理解できるはずです。
ですが、それを見つけるにはまずは1期を理解しなければなりません。

以下からはネタバレ込みです。

1期のテーマについて

1期の大きなテーマは失ってしまった過去にどう向き合い、どうやって今を力強く生きるかです。
既に死んでしまったゾンビであるフランシュシュが、アイドル活動を通して生き生きとよみがえる姿を丁寧に描きました。
その中で死の重みを時には軽くし、時には重くすることで見る人に生の実感を改めて思い起こさせ、感動を呼びました。
ここでゾンビという設定は有効に機能しています。
それは死者でありつつも生きていること、社会から外れた存在であることです。
前者は先ほど述べたとおりですが、後者は意外と見落とされています。
フランシュシュはゾンビバレを防ぐため、その多くの時間を洋館で過ごし他者との接触を避けます。
これにより、10代後半の女子でありながら、他の作品では避けて通れない学校や家庭の場面を回避できます。
この設定は話のテンポ間にも繋がっており、クローズドな空間でドラマが展開され彼女らの内面の動きにより焦点を当てることのできる、見事な設定だと言えます。
1期の終盤で描かれるさくらの立ち直りは1期のハイライトであり、それを象徴するシーンでしょう。
また、人が少ない佐賀県が舞台である点もこの意味では利点として働きました。

つまり、1期ではゾンビという設定が彼女らの心の葛藤を印象的に描くことに成功しました。
しかし、それにより作中で登場する「社会」とはアイドル活動のみになってしまいました。
もっと言えば、なぜゾンビがアイドルたりえるのか、佐賀県はそれとどう関わるのか、といった要素が含まれていませんでした。
もちろん、それは12話では尺が足りなかったからなのですが、「リベンジ」では続編としての形を取りながらも、1期で描かれなかった部分を再度描く、まさしく1期にリベンジするという意味が込められているのではと思います。
1期のカウンターから生まれたのが「リベンジ」なのです。
それはテーマだけの話ではなく、ゆうぎりの過去や幸太郎の新たな一面を描くという意味でもあると思います。

1期に対するカウンター

「リベンジ」のテーマについて踏み込む前に「リベンジ」のどこが1期のカウンターであったのかを確認します。
各話では<カウンター>と<続編>の要素が混在していますが、大雑把に分けると以下のようになります。
<カウンター>: 1話、2話、7話、8話、9話、12話
<続編>: 3話、4話、5話、6話、10話、11話

 1話には完璧超人であった幸太郎の挫折があります。プロデューサーの談話によると幸太郎を超人で終わらせたくなかったと述べており、1期の幸太郎を意識した上での展開であることは明確です。
 2話では、サキの過去の思いが中心となる回です。1期の9話で過去の因縁話はありましたが、もう一度描いたことには意味があります。言ってしまえば1期の9話では過去の因縁は薄く、現在のアイドルとしてのサキの姿を中心に描いており、サキ自身の過去の因縁は他のキャラクター(万梨阿、麗子)に置き換わっています。対して「リベンジ」ではホワイト竜への思いやラジオの思い出を登場させることで、サキ自身の物語を得ました。本来なら1期と「リベンジ」のサキ回は逆に配置されるのが、全体の構成から考えると妥当と言えます。
 7話では一度も登場しなかった学校が登場します。また舞々がフランシュシュに加入するエピソードでもあり、フランシュシュは内部に籠るだけでなく、社会や外部と接触することをさらに印象づける話でもあります。なぜ舞々がフランシュシュを去ったか、彼女にゾンビだとバレる展開が必要だったのかについては「リベンジ」のテーマに関連するので後述します。
 8話、9話はゆうぎりの過去回想回であり、説明するまでもなく1期のカウンターとして働いています。ここで注目したいのはゆうぎりは不慮の事故ではなく、自ら犠牲となっている点です。他のメンバーは不幸な死を乗り越えることが描かれますが、ゆうぎりにはそれが無く、むしろゾンビになったことで自由を得たとも言えます。メンバーの中で唯一初めから成熟しているのは、佐賀や仲間を大切にしたいという気持ちを変わらず持ち続けているからです。
 12話の1期とリベンジの大きな違いは、誰の目線でライブが描かれているかです。1期ではさくらの目から見たアルピノでのライブ(特に「ヨミガエレ」)が描かれており、見る人にとってはさくらの気持ちを追体験できるものになっています。反対に「リベンジ」ではライブ冒頭にカウントダウン演出が入り、フランシュシュの目線ではなく観客の目線が大きく取り上げられることで、見る人はあたかも観客の1人であるかのようです。1期ではさくら内部の心の葛藤が中心であるのに対して、「リベンジ」では観客目線から見たフランシュシュが強調して描かれます。

 続編の要素についても軽く触れます。
 3話、4話では愛と純子の成長が描かれます。1期ではメンバーでのアイドル活動に戸惑いを見せていた純子は「リベンジ」では自らの殻を破り愛を取り戻します。また、愛もトップアイドルを目指すという思いをフランシュシュの中(特に純子)に再度見いだします。5話ではリリィの活動の幅が広がり、子供たちの人気を獲得します。6話ではたえが佐賀の人々と触れ合いながら、ボートレースで借金を返す役割を担います。10話、11話ではリベンジライブ前の話が時系列に沿って描かれます。その中で大木場のフランシュシュへの追求の結末や、幸太郎の隠された想いが明かされていきます。


このように、「リベンジ」では1期の続き(キャラクターの成長、関係の進展)だけでなく、1期に足りなかった物語(キャラクターの新たな一面、外部の目線)も含まれています。
では、どちらの要素が多いのか? 
私は「リベンジ」は後者の要素が大きいと考えます。
1期と「リベンジ」は2つで1つの大きな物語であり、1期があったからこその「リベンジ」であり、「リベンジ」の存在があることで1期の独創性もまた鮮明になっていきます。

リベンジが描いたテーマ

外部や社会との接続

全体を振り返ったところで「リベンジ」の描いた、1期にはなかったテーマが見えてきます。それは外部や社会との接続です。

1話からフランシュシュはまさかのアルバイトを行っています。
社会との接点はアイドル活動のみだった1期とは大きな違いです。
1期の9話で幸太郎がサキに話した内容からも分かる通り、1期の間では生きている人間とのコミュニケーションはアイドルの時だけであり、それ以外はご法度でした。
しかし、2期では借金返済に迫われたフランシュシュの面々は自らが働くことを決心します。幸太郎がいなくても(アイドル活動ができなくても)、何もしないよりは少しでも働いて借金を返そうと考えたのです。
はじめ、彼女達は働くことはアイドル活動を再開するためであり、あくまでお金を貯めるためと考えていましたが、佐賀の人たちと触れ合った経験は無駄ではなかったことが物語終盤に展開されていきます。
同じく、2話のラジオパーソナリティ、7話の舞々の加入、11話の避難所生活も同じく1期にはなかった外部や社会との接点です。
佐賀県という舞台設定は、1期では実在の場所を活かすことで登場人物の存在感に貢献していましたが、「リベンジ」では佐賀に暮らす一般の人々と直接触れ合うことそれ自体を重点に置いています。

この外部や社会に積極的に繋がることで、「リベンジ」では死者としてのゾンビ性は薄まり、生者としての人間性にフランシュシュは近づいていきました。
ある意味、コンセプト放棄とも取れるこの展開を批判する声もあるようですが、私の考えはそうではありません。
むしろ、「リベンジ」の結末を迎えるにあたって、これらは有効に作用しています。
それはゾンビがなぜアイドルをするのか、佐賀県はアイドル活動にどう関わるのかという、1期を含めたゾンビランドサガの物語だけが到達した地平に繋がっていくからです。

ゾンビとアイドルの距離感

「リベンジ」の12話で幸太郎に言ったさくらのセリフに次のものがあります。

さくら「私たちはいつまでもどこまでも戦い続けるアイドルゾンビです」

ここで、さくらはアイドルとゾンビを分けず、フランシュシュをアイドルゾンビと述べています。
アイドルとゾンビは異物同士ではなく、フランシュシュにとってはこの2つは並列的で同じものであると宣言しているのです。
このセリフこそがゾンビランドサガの物語が到達した答えです。
1期ではゾンビだけどアイドルである、ということに焦点が当てられ、2つの概念には一定の距離感がありました。
ゾンビになってしまっても夢を諦めないことが描かれ、マイナスからの這い上がりが描かれました。
対しては「リベンジ」では、ゾンビはマイナス面として描かれず、アイドルとゾンビはより近づいていきます。

それを象徴しているのが11話でゾンビの素顔がバレてしまった時です。
フランシュシュはゾンビの素顔を見られましたが、アイドルとして受け入れられました。
このシーンの解釈として、フランシュシュが避難所の子供と仲良く接したから怖い素顔でも受け入れられた、と考えることはやや安直でしょう。
アイドルがなぜアイドルなのかは、アイドルが生きているかどうかは関係ない、人々が信じる偶像(idol)こそがアイドルの本質であることを描いた、そう捉えるべきシーンだと思うのです。
この後のシーンで、愛はゾンビであることは嘘である、という嘘をつきフランシュシュであることを演じます。
本当の姿がゾンビだったとしても、フランシュシュというアイドルを演じることで、初めて彼女達はフランシュシュになれるのです。
幸太郎の「正体が何であろうと、今のフランシュシュの姿こそが真のアイドルの姿だと思います」というセリフは、これを端的に表しています。

アイドル=ゾンビ

ここにゾンビとアイドルは、生者でもなく死者でもない存在であるという点において、一見すると奇妙な一致が見て取れます。
つまりアイドルの本質はゾンビであり、ゾンビだからこそアイドルになれるという隠されたテーマが浮かび上がるのです。
これこそがゾンビランドサガだけの到達点です。
1期では隠されたテーマであり、「リベンジ」の物語において明かされるテーマです。
これを描くためには生きている人との営みが必要です。
アイドルの本質を描くにはそれを信じる外部の目線が必要であり、その本質が表面化することでゾンビという設定が強く活かされます。
社会と関わることで生者としての人間性を高めても、ゾンビであることには変わりありません。
むしろギリギリまで生者に近くても生者になれない、死者である存在がフランシュシュであり、アイドルの本質なのです。
彼女達の存在は生き返ることのない死者としてのゾンビ、手を伸ばしても届かない憧れの偶像としてのアイドル、両方の面を備えているのです。

(実は1期の8話でこのテーマは既に描かれています。リリィはアイドルになることで、パピィに想いを伝えることができました。手が届かない存在という意味で死者とアイドルは強く結びついています。アイドルとしてのリリィの姿を見たことで、パピィは息子が亡くなったことを理解しながらもリリィが息子本人であると信じられるのです)

また、舞々がフランシュシュに残らなかった理由もこれに関連します。
舞々はフランシュシュは一度死んでしまっても頑張って生き抜いているからこそ強さがあると知ります。
アイドルになるためには、彼女達のようにまずは現実を力強く生きなければならないのです。
言い換えると、フランシュシュになるにはゾンビにならないといけないのです。
生前の過去と向き合って死後の現在を生きる、ゾンビのような強さがなければ、偶像としてのアイドルは成立しないのです。
生きているかどうかはアイドルの本質とは関係なく、むしろゾンビだからこそアイドルたり得るのです。
アイドルのさくらとそうではない舞々の違いを描くために、舞々にフランシュシュがゾンビであることがバレる展開をわざわざ用意したのです。

佐賀県の存在

フランシュシュがより大きなアイドルになるには、それを信じる社会である佐賀が必要になります。
「リベンジ」の12話では彼女達がこれまで関わってきた佐賀の人々(佐賀以外もいます)が集まることで、リベンジライブを成功させます。
「リベンジ」の今までのエピソードは全て12話のためにあったと言えます。彼女達は1期では自分達の自己実現のためにアイドル活動を行ってきましたが、「リベンジ」では佐賀のためにライブを行いました。
この違いは、そのままライブの規模に繋がっており、多くの人々がフランシュシュを応援することで、フランシュシュのアイドルとしての存在は1期よりも大きなものになったのです。
フランシュシュは人々が信じる偶像だからこそ、応援する人々の力だけフランシュシュはより高みへと上り詰めることができたのです。
この時のライブの演出は1期のさくらの心情に寄り添うものではなく、フランシュシュを外から見る観客目線であることも、アイドルの本質を描こうとしているからです。
佐賀を救う思いにより、フランシュシュはあの瞬間、さくらがいつか夢見たアイドルになることができたのです。

王道を行くアイドルアニメ

ここで、普通のアイドルものになったという批評には私は賛同できません。
ゾンビランドサガ以前の多くのアイドルアニメは、アイドル活動を職業としての仕事か部活の団体競技としか捉えず、アイドルの本質を描いていたとは言い難いです。
それはどこまでいっても、顧客を相手にするサービス業か仲間との青春スポーツでしかなく、アイドル要素は薄いのではと考えます。
ゾンビランドサガはゾンビを持ち出すので、一見イロモノに見えるかもしれませんが、ここまでアイドルの本質を描いた作品はありません。
むしろ作品のテーマから言えば、ゾンランドサガこそが王道のアイドルアニメと言えるでしょう。

(ここでは、ラ○ライブを良い印象で言及していませんが、自分はラ○ライブは好きです。しかし、それはスクールアイドルとしての物語だからであって、現実のアイドル要素を省いた青春部活ものとして非常に楽しめるからです。ラ○ライブとゾンビランドサガは、同じアイドルを扱っていますが、全く別のテーマを扱った作品だと考えています。)

まとめ

まとめると、1期ではゾンビの設定を上手く活かした自己実現の物語であり、この時のアイドルとは自己実現の手段でした。
対して「リベンジ」ではゾンビ性を薄めて外部との交流を増やすことで、アイドルの本質を描くことに成功しました。
1期と「リベンジ」の物語からアイドルの本質はゾンビであり、ゾンビだからこそアイドルになれるという、アイドル論が展開されていきます。

つまり、ゾンビランドサガはアイドルの本質をアニメならではの表現を活かして描いた傑作です。


※本文章は放送終了後にAmazonレビューに自分が投稿したものを下書きにしてあります。1年経ってからnoteに投稿していますが、文章自体は当時の気分を反映していることは注意してください。「リベンジ」に対する批判や無理解に対して、感情的に憤っているのはそのためです。自分のようなゾンビランドサガが大好きで、熱い感想を持ってくれる人が現れる事を期待して、noteにも再度投稿してみました。


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