【Vol.13】「器」を愛でる
わたしは数年前まで自分のことが大キライだった。
そこまで自己肯定感が低いというわけではなかったとは思うが、「自分大好き~」族がこの世にいることが信じられなかった。
もう20年も前のこと。
「自分大好き~」族の5歳くらい年下の女性と知り合った。
彼女からは「みちよっち」と呼ばれ、わたしは彼女を下の名前に「さん」付けで呼んでいた。
彼女からは、事あるごとに、なんだかんだと軽く説教をされていた。
ある日、そんな彼女が「それしかなかったから、そのパンツ穿いて来ちゃった~(てへぺろ)」
ベッドの下に丸まって落ちていた洗濯していない下着を穿いて来たというのだ。
彼女は一流大学を卒業して、本当に優秀な子。
「あ~こんな子に説教されているんだな~」としみじみ思った。
おそらくわたしは生まれ育った環境からか、過度に自分に対して厳しかったのだと思う。
このカワイげの性格が嫌だな~と心底思っていた。
名前さえも好きでなかった。苗字も名前も。
特に下の名前を呼び捨てにされると「ケンカ売ってんかっ!?」というくらい、キっ!っと過剰反応していた。
土木に出会い「仕事しているのが自分の生きがいなんだな~」「天職だな~」と思うようになっていた。
しかし、自分がキライなのはもちろん変わらずだが、それどころか、仕事にのめりこみ過ぎて、かえって自分の心身を酷使するのが当然となった。
幸いにも、心身共にとても頑丈に出来ているらしい。
おかげさまで、大病どころか風邪もほとんど引くことなくここまで生きてくることができた。
ありがたいことである。
世界の誰もが経験した、これまでの価値観が一変する"あの出来事"が起きた。
そのなかで偶然ある本に出合い、はたと気付いたことがあった。
その「気付き」は、わたしのこれまでの「人生の偏り」を大きく変えた。
「わたしは身体や心を酷使してきたけれど、もしかして、それが自分の所有物だと思っているから大切に扱わないのではないか?」ということであった。
たしかに、人のものや人のことなら、もっと大切に扱うのではないか?
日本人的思考で「他者優先」。
これはけっして他人を尊重して大切にしているというわけではない。
他者からの批判や評判に臆するあまり、自分を抑えて他を優先してしまうという意味である。
わたしは「他人から見てどう思われるか?」というのは、あまり考えない方だが、それでもかなり自己犠牲の傾向が強かった。
そこで「はっ!」と気が付いた。
「自分の心身を自分自身だと思っているから大切にできないのではないか?」と。
この肉体と心は「わたし」という容れ物。つまり「器」。
「"名前のついている肉体"のわたしと"真"のわたしは別物なのでは?」と。
「それならば、"真"の自分が"器"を扱っていると思えば、もっと大切に扱うことができ、その存在を尊重できるのではないか。」と。
自分の心身が「器」だと思うようになってからは、あんなにキライだった下の名前で、自分に呼びかけることができるようになった。
「疲れたね」「ムリさせちゃったね」「あれは嫌だったよね」「頑張ったね」「そういうあなたもOKだよ」・・・と心の声を聴き、バランスの良い食事や運動、瞑想などで身体も大切に扱うようになった。
特に日本人は”そうさせられてしまったため"、他人軸で生きている人が非常に多い。
すぐにその考えグセは修正できるものではないだろう。
それならば、わたしのように発想の転換をし、自分を他者と思って、労わり愛でることから始めてみてはいかがだろうか。
そうすることで心身が整い、自分で考える力も取り戻せるようになるかもしれない。