見出し画像

ブラームスに才能を見出された音楽家

おはようございます☀️
こんにちは😃
こんばんは🦉🌛
c_cotton358です。

『音楽×星』で書き連ねていますが、自分の中の自分が喜んでいる感じがします。
単なる自己満から始まった投稿ですが、続けていられるのは目に留めて読んでいただける画面の向こうのあなたのお陰です。ホントに、ありがとうございます。

さて、前回は牡牛座さんだったブラームスを取り上げて、そのブラームスが生涯の中で、1人の音楽家を見出したと書きましたが、それが上の肖像画の方です。右下の肖像画の方が有名かと思いますが、左上の若かりし頃の肖像画を見る限り、相当おモテになったのかなぁ〜などと思いますが…、スラヴ舞曲集で一躍人気作曲家の仲間入りをしたと言われている、アントニン・レオポルト・ドヴォルザークです。

右下の肖像画は何やら眉間にシワを寄せて難しい考え事をしているのか、描き手の向こうにある何かが気になってしまったのか…🤔そんなドヴォルザークですが、乙女座さんです。

【肉屋と宿屋を営む家の息子として産まれながら…】
ドヴォルザークは1841年9月8日、オーストリア帝国(現在のチェコ共和国)のプラハから北に30kmほど離れたネラホゼヴェスに生を受けたそうです。
父親は村の中では評判のツィター(琴のような楽器)の名手で、簡単な舞曲を作曲して演奏していた。伯父もまた、トランペットの名手として知られており、6歳の頃から小学校に通い始め、校長からヴァイオリンの手ほどきを受けるとみるみる間に上達して、父の宿屋や教会で演奏をするようになり、音楽の才能を開き始めます。
しかし、父親は長男坊だったアントニンには肉屋を継がせるつもりで、小学校を中退させて母方の伯父が住む街へと肉屋の修行に行かせます。ところが、その街の職業専門学校の校長でドイツ語を教えていた(当時、肉屋の技術取得書を得るにはドイツ語が必修だったそうです)アントニン・リーマンは音楽に精通していた人物で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏のみならず、和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えていたそう。

音楽に魅せられて、才能にも恵まれていたのに、父親の方針転換で違う道に進まざるを得ない状況になりながら、音楽を学び続けられてしまう環境。ドヴォルザーク的に『自分はどっちの分野の勉強をするべきなのだ?』と、幼いながらに脳が混乱したでしょうね。

1855年、実家の経済状況が悪化して息子に音楽の勉強をさせているどころの状態ではなくなった両親は、彼を帰郷させて肉屋を手伝わせようとしていたようですが、これにリーマンと伯父が猛反対して、両親を強く説得し、叔父が経済的負担を負う約束で1857年にプラハのオルガン学校へ入学しています。経済的には苦しい学校生活だったようだけれど、1859年に12人中2位の成績で卒業しています。卒業後は、カレル・コムザーク1世の楽団にヴィオラ奏者として入団、ホテルやレストランで演奏を行なっていたが、1862年、チェコ人による国民劇場建設が具体的に決まって、完成までの間に仮劇場を設けることになっていて、その仮劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となり、1866年、このオーケストラの指揮者として迎えられたベドルジハ・スメタナに直接教えを受ける機会にも恵まれたそう。
創作活動においては、オルガン学校在学中から習作は行なっていたようですが、その多くは破棄されてしまったそうです。1871年に作曲により多くの時間を充てるために、オーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てようとした、そんな状況下で1872年から作曲に取り掛かった作品が彼の最初の出世作となった賛歌『城山の後継者たち』だったそうで、1873年3月、友人カレル・ベントルの式で初演されます。この当時、民主主義の高まりもあり、この曲は成功を博しプラハの音楽界で著名な存在となったそうです。

……ここまでで、私でなくとも思ったと思います。笑
ブラームスとの出会い、どの辺?って。この後です。

【ブラームスとの出会い】
1874年7月にドヴォルザークは、交響曲第3番、第4番他数曲を、新たに設けられたオーストリア政府の国家奨学金の審査に提出し、1875年2月からこの奨学金が与えられることになった。その金額が当時の彼の年収の2倍以上に当たる高額なものであり、毎年審査を受けないとならなかったそうだが、彼は5年間この奨学金を受け取っています。
1875年から1877年にかけてプラハの豪商ヤン・ネフの依頼で作曲された全22曲の『モラヴィア二重唱曲集』これを、1877年の奨学金審査のために提出したのですが、その年の奨学金の審査員を務めていたのが、前回出てきたブラームスです。ブラームスは、この楽曲を目に留め、懇意にしていた出版社にドヴォルザークを紹介。『この二重唱曲がすばらしい作品であることは、あなたの目にも明らかでしょう。しかもそれらは優れた作品なのです』と、熱烈な紹介状が添えられていたとか…。そこから両者の親交が始まっていったそうです。

一大音楽家の目に留まって、出版社に繋がり、瞬く間に有名音楽家の栄光に踏み出すこととなっていったブラームス。ですが、その裏で、1877年に次女、長男を相次いで亡くすという不幸に襲われてしまいます。(それ以前に、生まれた長女も生後2日で亡くなっており、結婚してから数年の間に設けた3人の子どもを全て失ってしまいます)彼らの冥福を祈り作曲されたのが、ドヴォルザークの宗教音楽の傑作『スターバト・マーテル』
私自身も、大学時代に西洋音楽史の授業の先生から音楽大学に在籍したのなら一度は聴けと言われていた100曲リストの中に入っていた記憶…(聴いたかどうかは定かでは…。もう、時効なのでご容赦ください、笑。)

1891年から1895年までの間はアメリカで活動していた時期もあるそうですが、その頃と言えば、1893年恐慌の煽りをまともに喰らってしまいそうなタイミング…。求められた仕事をこなしながらも、報酬の支払い遅延が恒常化しつつあったことだろうし、1894年には様々音楽家の訃報に触れ、さらには父親の病気を知って5ヶ月間の休暇の間にチェコに戻ったことで、強烈な郷愁から身体を壊してしまったそう。

(家庭環境に影響されたという側面はあるにせよ)
・幼いながらに、急な方向転換を迫られそうになった
・自分のできる範囲で最大限の結果を出す
(当時の医療技術ではなす術もなかったけれど)
・自身が設けた子を3人とも亡くしてしまう
(労いや称賛の言葉は数多くあっただろうし、不況の真っ只中だったアメリカ時代には…)
・自身の頑張り(仕事)が報酬面で正当に評価されていないのでは?と彼自身の中で悩みが生じただろう限界突破。それが引き金となっての体調不良

うん、乙女座さんですね、みたいな感じです。

チェコに本帰国した1895年、ドヴォルザークには多くの栄誉が与えられます。
ウィーン楽友教会は、彼を名誉会員に推挙、同年ウィーンの音楽省はドヴォルザークの俸給を増額するように明記しています。1897年にはオーストリア国家委員会の委員となります。この委員会、かつてのドヴォルザークが得ていた奨学金の審査を行う委員会で、自分にできることで相手の役に立ちたい性質を持っていたドヴォルザークにとっては、この上ない喜びを感じたことでしょう。【才能ある貧しい若者を援助できる立場】になれたのだから…。
そのような中でも、ドヴォルザークの中には焦燥感が渦巻いていたそうです。
オペラで大当たりを取ったことがないという焦り、そしてチェコの民話に想を得た台本『悪魔とカーチャ』に出会い、1898年にから1899年にかけてオペラ創作に邁進していきます。これが大成功を収め、次の台本を探し求め、出会った『ルサルカ』1900年4月から着手された作品で、1901年3月にプラハで初演されて再び大成功を収めたのに、様々な事情からウィーンでの上演の機会を逃し、国際的な名声を生前に受けることは叶わなかったっと言われています。
・できることの中で完璧を追い求める側面がここで出てきたのでしょうね。

全くもって意図してなかったのですが、ここまで調べていてドヴォルザークが実は鉄道ヲタだったエピソードや、小惑星の中に彼の名を冠したものが存在するとか、出てきましたが、そこまで書き記しているととんでもない長さになってしまうので、ここでは割愛します。小惑星の話は広げたかったですが、情報が少なすぎてしまい…

今回も、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
♡やコメントが励みになります。
それでは、また。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?