理由のある価値の怖さ

 なんとかだから大切だ。立派だ。素敵だ。意味がある。価値がある。

 こういった類いの表現をよく耳にしますが、ここには怖いものが潜んでいます。この事実を忘れてはいけないと、そんなふうに思います。

 なんとかだから大切だと言う場合、なんとかでなければ大切でないという意味がどうしても含まれます。そもそも、大切や価値はそれとは逆のものの存在を基本的には必要とします。ですから、なんとかでなければ大切でない、意味がない、価値がない、そう述べていることと同義になります。

 たとえば、頑張っている人の人生には価値があると発した場合、それは頑張っていない人の人生には価値がないという意味になります。相対的に価値が低いとも言えますが、価値が低いこととないことは、共に価値があるという枠のなかから掃き捨てられたものとして、同じようにここでは扱います。結局、相対的な低さは、ないというより低いほうへと流されてしまうものですし、どちらであっても、もたらされる恐ろしさは変わりません。

 いずれにしても、ここで問題になることの一つは、表現の反対側に関するこういった意識は往々にして埋もれがちであるということです。言葉には裏側があるという事実は忘れられがちだということです。そんなことは言っていないと怒鳴ってみたところで、言葉に裏側があるのは事実としてそうです。表現は常に立体的です。

 別の一つは、頑張りという概念が極めて曖昧かつ恣意的だということです。なんとかの部分がいくらでも自由に設定できるということです。それはつまり、特定の存在や集団を意図的に低くすることも可能だということです。自分や自分が属する集団をより高くすることもできるということです。

 基本的に、前者は自らに潜んでいる攻撃性や排他性の無自覚な発露を生み、後者は存在の軽視や選別をもたらします。先ほどのたとえを、役に立つから、という理由によって語られる価値や意味、大切さに変えてみれば、よりくっきりとえぐみが出てきます。

 理由のある意味づけや価値づけ、承認は怖いものです。理由から恣意や悪意、欲求や価値観、意図や企みを切り離すことが困難だからであり、そしてその理由がなくなれば終わりだからです。こういった価値づけや承認は、嫌悪や憎悪へと続く道でもあります。

 価値がある、なぜなら価値があるから、といった形式以外の価値づけや、絶対的な価値という形での価値づけ以外の価値づけを仮に行うのであれば、理由をつけることの怖さやそれが生み出すものに対する認識がなければいけません(同時に、理由の有無に関わらず、価値をつけることそれ自体に潜んでいる危険性に対する感覚も。価値をつけたり選び取ったりすることの重要性や大切さは叫ばれても、そこに眠っている怖さはあまり叫ばれないように思います)。意味づけも同様です。

 ですがその際に生まれる別の怖さが、頭でだけ認識することです。自分は認識しているという驕りです。攻撃性や排他性、偏見、おっかない価値観や考え方の彼岸に自分は立っているという意識です。自らがそういった恐ろしいものに陥ることを想像さえしないという態度です。自分は大丈夫という思い込みです。無邪気な排他性や攻撃性は、分かりやすい形で発露されたものと同様、怖いものです。

 理由と共に語られる意味や価値と出会ったら、一歩引いてみたほうがいいと思います。それは誰かを傷つけ、なにかを踏みにじり、存在の首を絞め上げるものだからです。綺麗な表現でもなければ素敵な表現でもない、端的に怖い言葉だからです。悲鳴を生むものだからです。ごく自然に、それもあちこちでなされているからこそ、なおさら。

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