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【#番外編_卒論連載】なぜ電柱と電線に萌えてしまうのか

💡 このnoteは2021年度私が執筆した卒業論文をもとに、大幅に加筆・修正を行ったものです。本文では基本的に敬称は省略しています。


番外-1 あなたは電柱と電線に萌えますか?


「電柱と電線に萌える」

 電柱と電線に普段から注目していない人からすれば、意味不明な言説ですね。

 今、手元にTwitterにアクセスできる端末を持っている方がいれば、ぜひ「#いい電線」で検索をしてください。

 どんな感想を得たでしょうか。

 「いやよく分からん」なのか「なんとなくわかる」なのか「電線に萌えた」なのか、、人それぞれの感想を持ったと思います。

 ただ、今まで生活の中で気にすることのなかった、【#4】の近森の表現を借りれば「見えているが見えていないもの」としてあった電柱と電線。それが、SNS上ではその形状に対して「なんかよくない?」という肯定的な見方で電柱と電線が立ち現れているんだということはお分かりいただけたのではないでしょうか?


 そういった電柱と電線の立ち現れ方は近年広がりを見せているように感じます。

 全国9つの電力会社からなる電気事業連合では「フォトコンテストー日常の風景にある電力」と題して鉄塔や電柱・電線をテーマにしたフォトコンテストを開催している例などはそれにあたるモノでしょう。


さらにはこんなニュースも。。

 この事例はまさに【#3】での近森の議論「公共性の語り」と「趣味性の語り」の二項対立が如実に現れていますね。


 電柱と電線が被写体として形状や配置が注目されており、萌えに近い消費の仕方をし、ある種の電柱オタク、電線マニア、愛好家といった界隈を作り出しているのです。


 この番外編では、なぜ今そういった電柱と電線の捉え方が出現し始めたのか。

 【#3】の言い方を借りれば、なぜ今電柱と電線は「景観異化」し始めたのか。その背景を探っていくことにします。



 最初に【#3】で登場した「景観異化」というここでも重要になるキーワードを確認しておきましょう。

 「景観異化」とは、長い間そこにある(同化)ことで、以前の価値観(意味)が棄却されるとテクノスケープの形而下的特徴つまり、即物的な「形」が着目されるようになるというものです。

 そしてそれはまさに現在の電柱と電線に当てはまるということを指摘しました。

 冒頭で紹介した電柱と電線に萌えるというのは、まさに即物的な「形」への着目でもあります。


 では、その景観異化はどのように起こっているのでしょうか。



番外-2 空間的に熱狂してる!?


 これまでのnoteで何度も繰り返してきたことでありますが、電柱と電線は下部構造であるインフラにも関わらず都市空間の上部に物的なモノとしてある「剥き出しのインフラ」です。

 【#1】ではインフラは社会の下部構造という一面と同時に、(物的なカタチを持つインフラの場合)その巨大性からモニュメント性をもつ両義性があることを確認しました。

その物的な、モニュメント性はどのように萌えの対象として変化していくのでしょうか。


 ここでは建築家である藤村龍至の議論を補助線にしたいと思います。

 藤村龍至(2014)は現代の都市空間は物理空間と情報空間の二層化が進んでおり、物理空間に情報空間には還元されない身体を刺激するような「空間的熱狂」や「遭遇可能性」を求めるようになったと指摘しています。
 例えば、ロードサイドやロックフェスティバルなどを具体例に上げています。

 奇しくも小池百合子都知事による無電柱化推進(=排除)の契機である阪神淡路大震災が起こった1995年は、情報空間の広まりの先駆けであるマイクロソフト社のOS「windows95」が発売された年でもあったりします。


 ここで言いたいのは、電柱や電線から我々は「空間的熱狂」を感じ取っているのではないではないかということです。


 電柱や電線には巨大インフラのような物理的な大きさによる「空間的熱狂」はありません。しかし、複雑性が高いカタチという面での「空間的熱狂」があるのではないでしょうか。

 上記について電線愛好家である石山蓮華さんの電柱と電線のTwitter投稿を参考に説明します。

 1つ目のTwitter投稿は電柱を下から撮った写真。下から撮ることによって電柱に設置されているモノが垂直方向に圧縮されています。多層に重なる電線が印象的な写真です。

 2つ目のTwitterも同じように横から撮ることによって電柱と電線をとることによって水平方向に圧縮されています。反復する電柱や、連なり続ける電線、単体からは感じることのない電柱と電線のスケールを感じ取ることができます。

 どうでしょう、下や横から撮ることによって見えてくる、「電線の複雑な配線」や「反復し続ける電柱」といったカタチはある意味で「空間的熱狂」をしているようには見えないでしょうか。 これは藤村が指摘する、身体を直接刺激するような「空間的熱狂」ではないかもしれません。


 しかし、その電柱と電線のカタチの複雑性は空間的に「量」を持ちながら熱狂しており、それに人間に伝播するような構図になっているのではないでしょうか。情報空間では得られることができない「空間的熱狂」がそこにあるのかもしれません。



番外-3 電柱と電線=私たち


 さらに、石山さんはインタビューのなかで電柱と電線を生物や人間の身体との類似性、その複雑性に魅力があるという発言をしています。

 以下で引用している発言は「電柱と電線」が私たちの生活に同化した結果、意味が棄却され、新たな意味が付与される、まさに景観異化の形とも言えます。

都市をひとつの生き物とするなら、インフラである電線は神経と血管。それが剝き出しで見えているのが生々しくてかっこいい。
さんたつHPのインタビュー記事から引用)
工業的なんだけど、ちょっと生き物っぽい雰囲気
女の転職typeHPのインタビュー記事から引用)
無駄にいっぱいあるのがいい
(DVD『電線礼賛』セリフから引用)

 確かに、工業的なものであるのにも関わらず、それだけでは捉えきれない複雑性を持っている電線はどこか生命を感じるような気がします。

 noteではこんな記事も


 電柱と電線の複雑性を生物や人間の身体へ見立てる語り方は、M・マクルーハンの電子メディアの普及による変化である「内爆発(implosion)」と根底で通じているかもしれません。

 これは、私たちの中枢神経組織が通信技術やテレビによって地球中に拡大しているというものです。例えば、距離を超えてこのように情報があなたに届いているように。


 電柱と電線はまさに、マクルーハンがいうように私たちの中枢神経組織の延長として電線というカタチで溢れ出し、都市を、地球を覆っているように見えてきます。

 さらには、上記で確認した電柱と電線の「空間的熱狂」は私たちの中枢神経組織の自体の熱狂だと考えることができるのではないでしょうか。

 そう考えると、「私たちの身体の拡大」それ自体に「私たち自身が熱狂している」のとも言えるかもしれません。



番外-4 そして、拡大再生産へ


「私たち自身の身体の拡大」


 前節で出てきたこの言葉は「情報空間の拡大(内爆発)」「電線と電柱の物的なスケール拡大」の両面の意味を持っています。


 小難しい言い方をしてしまっているかもしれません。こう言い換えましょう。

 私たちは通信や電力技術によって生まれたラジオやテレビ、SNSによってどこにいても世界中に情報空間を通してアクセスできるようになりました。年々その技術は進化しています。最近だとメタバースなんてよく聞きます。

 これが「情報空間の拡大」です。

 しかし、それを可能にしているのは「電線と電柱の物的なモノ」です。(この話は【#7】でも触れる重要な話ですが)  

「情報空間の拡大」するためにそれを支えるインフラ設備、ここでは「電線と電柱の物的なスケール拡大」が必要になるのです。


 それは【#1】でも触れた「インフラは「図」として体験され、さらに「地」としてその体験を下支えするためにスケールを拡大させ、再び「図」として体験を作り出していく流れ」とも繋がってきます。

 以下の図で説明しましょう。

図 番外-1 | 電柱と電線の円環

 モバイルメディア普及以前の円環として、電子メディアの普及による通信技術や電力の送配電は電柱と電線というカタチで上部空間に現れます。それは次第に電子メディアが拡大していくこと(衛星放送、光ファイバーなど)で、電柱と電線それ自体のスケール(物的なカタチ)を拡大させていきました。

 つまり、情報空間の拡大(熱狂)は、そのまま物理的な電線の拡大(熱狂・複雑性)へとリンクし、それがループしているのです。

 モバイルメディア普及以後は、上記で説明したように、電柱や電線、その物的なスケール(物的なカタチ)を「空間的熱狂」や「生き物らしさ」という「図」として体験し始めます。そしてそれを「地」としての電柱と電線を利用し情報空間へ流してき、それは電柱と電線自体のスケール(物的なカタチ)も再拡大させていく契機にもなる、といったような円環にも派生するでしょう。


「私たち自身の身体の拡大」は「物的なスケールの拡大」と「情報空間の拡大」や「地」と「図」の両面として現れ、それをループしながらその両面自体を拡大再生産しているのです。

 そしてそこには、【#1】で見たように、情報空間の拡大によって自身の生活そのものが被写体になりどんな物事も他人のまなざしの中でネタになっていきます。「電柱と電線」もその渦からは逃れられないのかもしれません。



番外-5 オタクの思想とのリンク

 これに続けるかたちで最後に、電柱と電線が「見えないものへの想像力」というオタクの思想とリンクしていることも紹介しておこうと思います。

 大澤真幸(2008)は、オタクの思想の特徴として、オタクは極狭い範囲のことにしか関心を向けないように見えるが、その極狭い範囲を通じて、普遍的な全体性にアクセスをしているという指摘をしています。

 例えば、鉄道オタクは目の前の一本の線路からその先につづく身体性を超えたもの、首都や、国家領土、世界への想像をしているといったように。それは無意識的かもしれませんが、そういった特徴があるのです。

 つまり、そういった物的なモノからその先へ続く「見えないものへの想像力」こそがオタクの核心なのです。


では電柱と電線はどうでしょう。

 電柱と電線は「空間的な広がり」「時間的な広がり」を有しており、「見えないものへの想像力」を喚起させます。


「空間的な広がり」は鉄道のように電線が日本中どこまでも続いているようにみえるつらなり。
 電気事業連合会が行っている「日常の風景にある電力Instagramフォトコンテスト」のコンセプト文を見てみましょう。

日本のどこまでも電気をつないでいる「鉄塔、電柱、電線」を通じて“つながり”を感じられる
日常の風景にある電力InstagramフォトコンテストHPより引用

 まさにそういった表現のされ方をしています。

 目の前の電線は故郷に、首都に、自分が行ったことも行くこともないような場所にまで確実に繋がっていると同時に、現代都市の複雑なインフラシステムのネットワークの一部でもあります。
 そういった地理的な広がりと国家システムの複雑性といった現代社会への想像力が可能になるのです。


「時間的な広がり」は今も昔もそこにあるという、時間軸のつらなりです。 

 今生きている多くの人間は物心がついたときから、身近に電柱と電線があったのではないでしょうか。
 さらに自分が生まれる前の映像のなかにも電柱があることもある。そういった、時間をこえた過去への想像力も喚起するものです。

 さらに言えば電線の複雑性は、ある種での「時間の厚み」でもあります。
長い時間をかけて「図 番外-1」のようなループによって物的にスケールを拡大させてきたわけです。電線の物的なカタチからはそういった「時間的な広がり」を感じることができるのではないでしょうか。




 ここまでなぜ「電柱と電線」に萌えてしまうのか、どのように萌えているのかをまとめてきました。

 実はこの章は半分くらいがnoteオリジナルのもので、実際の卒論には記載がない部分も多いです。それはこの「電柱と電線」に萌えてしまうのかということが明確に分析し切れなかったということが関連しています。

 ここは今後の課題として残して置く部分でもあるので今回は番外編として掲載しました。


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記事一覧

📚(このnoteの)引用・参考文献リスト
藤村龍至,2014,『批判的工学主義の建築――ソーシャル・アーキテクチャをめざして』NTT出版.
加藤陽介編集,2021,『電線絵画小林清親から山口晃まで』求龍社.
松田裕之著,2001,『明治電信電話(テレコム)ものがたり:情報通信社会の《原風景》』日本経済評論社.
M・マクルーハン,栗原裕・河本仲聖訳,1987『メディア論:人間の拡張の諸相』みすず書房.
大澤真幸,2008,『不可能性の時代』岩波書店.

DVD
石山蓮華(出演)/樋口真嗣(出演)(2019)『石山蓮華の電線礼賛』[DVD],日本:アミューズ.

WEBサイト
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ここまで読んでくださりありがとうございます。 今後、「喫煙所」の研究をする際に利用する予定です。ぜひよろしくお願いします!