海底の白砂で芽生えたもの
最近、2日も連続で
「海底で一人で座っている夢」
を見ました。
海の底で座っている「私を」、その後方4-5メートルのところから「私が」見ているという夢です。
なんだか不気味な光景ですが、それでいて少し懐かしい感じもして、寝起きではいつもより長い時間ボーッとしてしまいました。
・・・・・
30年ほど前の話になりますが、私は沖縄の大学を卒業しました。
4年間の沖縄生活で、大学の休みや週末はダイビングショップでアルバイトをしていました。
大学に入ってスキューバダイビングをしたくなったものの、他の学生の御多分に洩れず私もお金のないビンボー学生で、
大学の友人からのツテをたどって北谷町にあるダイビングショップを訪れ、しばらく無給で働くことを条件にライセンスを取らせてもらいました。
その後もアルバイトとして働き、水中レスキューの免許も取得してガイドもするようになり、ショップのオーナーから中古のカメラを譲り受けてからは水中写真にハマりました。
冒頭の「海底で一人でたたずむ」というのは私が実際に沖縄の海でよくやっていたことなのですが、これはあるお客さんの影響です。
大学3年の10月、4日連続でダイビングの予約を入れられた「ケイコさん」という女性がいました。当時34歳で東京からお越しになったお一人様のお客さんです。
大学がちょうど秋休みの時期で私がケイコさんの担当となったのですが、沖縄にいらっしゃる前にケイコさんに送った
「どんなダイビングをしたいか」
という質問に対し、ケイコさんからファックスで送られてきた回答は風変りなものでした。
「料金はいくらかかってもいいので、他の
お客さんと交わらないようにして欲しい」
そして、
「白砂の海底でずっと座っていたい」と。
一般的に
ウミガメやサメ、マンタなどが見られるポイントに連れて行ってくれとか、
クマノミやウミウシの写真を撮りたいとか、
青の洞窟など、太陽の光が織りなす海の中ならではの地形が見たい
といったリクエストが多いのですが、ケイコさんからの回答を読んで
「芸能人か?
よほどの人嫌いなのか?
人間関係に疲れ果てた人なのか?
あるいは超ワガママな人なのか?」
とケイコさんが来るまで戦々恐々としていました。
・・・・・
ケイコさんのダイビング初日。
ショップにレンタカーでひとり現れたケイコさんは、その装いなどから比較的裕福で品のいい暮らしをされていることが窺えました。
また人を寄せ付けない「人嫌い」な方どころか、気さくで朗らかな笑顔が似合う魅力的な方で、初めて会ったときから私はケイコさんに好意を抱かずにいられませんでした。
もちろんケイコさんは「お客さん」であって、そんな個人的な感情を表に出すわけにもいきません。それに私は当時ハタチかそこらのガキに過ぎず、10歳以上年上のケイコさんは私の手の届かない
「オトナの女性」
というのが第一印象でした。
・・・・・
船に乗り込む前、まず4日間の予定や海の中での行動を打合せしました。
「今日潜るのは水深10メートルぐらいの、
ずっと向こうまで白砂の砂紋が続いている
ところです」
「あら、そう!
やっぱりこういうのは沖縄よね~」
「それでケイコさんはお一人がいいという
ことで、ボートもお客さんはケイコさん
だけです。
ただ海中では僕がケイコさんに付かなけ
ればいけないんですが、ぶっちゃけた話、
海の下でも一人がいいですか?」
「う~ん、でも、ダメなんでしょう?」
「じゃあ一緒に海底に下りて、気に入った
場所が見つかるまでお供します。
そのあと僕は退散して30分ぐらいでお迎えに
来るようにしますので、そこから絶対に動か
ないことだけ約束してもらえますか?」
「えっ?いいの?」
「はい、前回のダイビングからブランクがある
のがちょっと気になりますが、ケイコさんの
ダイビング歴からすると、ひとりでじっと
座っているだけなら問題ないと思います」
「うわぁ、ありがとう〜!
私、とんでもないワガママさんよね」
「いえいえ、僕もひとりになりたいことは
ありますから。ゆっくりしていってくだ
さい」
・・・・・
ボートがポイントに到着すると
ウェットスーツを着て
BC(空気量を調節するベスト)を羽織って
タンクを背負い、
フィン(足ひれ)をつけ、
レギュレーター(口に咥えて空気を吸うもの)と
空気の残量を見るゲージが正常に動いているか、
自分とケイコさんのものを確認しました。
水深約10メートルの海底の様子がボートの上からわかるほど澄みきった海です。
まず私から海に入り、しばらくしてケイコさんもボートから飛び込んで海に入ってきました。
お互いにまず立ち泳ぎでプカプカと水面に浮いた状態で海水に身体をなじませます。
しばらくして
「じゃあ行きましょうか」
とBC(空気量を調節するベスト)の空気を抜き、水面に対して身体が直角の状態のまま、息を吐いて海の中に潜っていきます。
ケイコさんは緊張しているようで、私が2メートルほど水中に降りてもまだ海面から降りられない様子だったので、一度海面まで浮上して声をかけました。
「ケイコさん、大丈夫ですか?」
「うん、久しぶりだから緊張してるかも」
初心者や経験の浅いダイバー、ブランクのあいたダイバーによくあることで、潜ろうと思っても潜れないことがあるのです。
人間の身体って不思議なもので、重いタンクを背負い、重りをつけていても身体は簡単には海の中に入っていきません。
身につけているウェットスーツがそもそも空気をたくさん含んでいます。
そのうえ、口に咥えたレギュレーターからしか空気を吸えない海中に入るわけで、身体が拒否反応を起こすのです。そうなると「沈むまい」として空気をたくさん吸い込むので肺が浮袋になってしまいます。
立ち泳ぎの状態から海に入るには身体全体をリラックスさせ、息を吐いて浮袋状態になっている肺から空気を出していかなければなりません。
ケイコさんは水面で深呼吸を繰り返していましたが、やがて
「はびーびさん、
下からひっぱってもらっていい?」と。
「え?いいですけど、
ゆっくりでいいですよ、
あわてなくても」
「ううん、たぶん一度下に潜れたら落ち着く
と思う。だから下からひっぱって」
「わかりました。
じゃあ足首をつかんで下から引っ張ります。
耳抜き、忘れないようにしてくださいね」
それで私は再び潜り、目の前にケイコさんの足先が現れるまで潜行し、そこからケイコさんの足首を引っ張りながら少しずつ潜行していきます。
映画「007/スカイフォール」のオープニングで以下のようなシーンがありましたが、ちょうどそんな感じです。
やがてケイコさんの足から力感がなくなり、少しずつケイコさんが上から降りてきたので足から手を放します。
私もそこで潜行を停止し、海面から3メートルぐらいの位置でケイコさんと私の目の位置が同じぐらいの高さになりました。
するとケイコさんが私の両肩をつかんできたので、なんだかケイコさんと抱き合っているような格好になりました。
不安になると何かにつかまりたくなります。
ケイコさんの吐く息の間隔がやや短く、
目を見ると目が少し踊っています。
ケイコさん、まだ緊張してるな・・・。
女性と抱き合うような形になっているとはいえ、水中でスケベな気持ちになることはありません。
(ホントです、ホントなんです!汗)
なぜなら水中で緊張している人が最もパニックを起こしやすく危険だからです。
ふと思いなおし、ケイコさんのBC(空気量を調節するベスト)に空気が残っていないかを確認するためBCのボタンを押すと、そこからボコボコとたくさんの泡が水面に向かって浮かんでいきました。
ということはケイコさんが身につけているBCに空気が残っていた、つまり浮き輪を身に着けたのと同じ状態だった、だから海中になかなか潜っていけなかったのだということになります。
泡が頭上にフワフワと広がって浮かんでいく様を見てケイコさんがこちらを見、笑っている目になったので私も水中で笑い返しました。
そこで水圧で耳が痛くないか、
耳抜きができているかを確認するため
耳を指さし、指で「OK?」のサインを
出しました。
ケイコさんも同じく指で「OK」サインを
出したので、
「じゃあ潜行しましょう」
という手の合図を出し、それから両手をゆっくり上下させる仕草をしながらケイコさんに
「ゆ〜っくり、ゆ〜っくり」
と目でメッセージを送りました。
ケイコさんも理解してくれたようで指で「OK」サインを出しましたので、そこから一緒に
5メートル・・・
10メートル・・・
と降りていって海底の白砂に到着しました。
透明な水が広がり、海底一面に真っ白い砂と、そこに自然の波が形造った砂紋が視界が効かなくなるところまでずっと続いています。
おもむろに私は抱えてきた
「お絵かき先生」
を取り出しました。
海の中で会話はできません。
だから何か言いたいときに「お絵かき先生」を使うのですが、これは水の中でも何度も書いたり消したりできる優れものです。
まず私の方から
「もっと移動したいですか?」
と書いて見せると、ケイコさんは手を振って
「いやいや」「ここでいい」
と手で合図を送ってきます。
私は「お絵かき先生」に書いたものを一旦消し、ここでケイコさんをひとり残そうか残すまいか悩みつつ、「お絵かき先生」に
「ひとりで大丈夫ですか?」
と書いてケイコさんに見せました。
するとケイコさんは「お絵かき先生」のペンを私から取り、私の書いたものを消してから
「いっしょにいて」
と。
ケイコさんの目を見ていると、ケイコさんはさらに
「ちょっとこわい」
と書きました。
ケイコさんが両手を胸のあたりで前後させるような仕草をし、
「心臓バクバクしてる」
と言いたいんだなと理解しました。
私は指で「OK」を出し、ケイコさんからペンを取り
「もうちょっと先に行って
すわりましょうか」
と書きました。
ケイコさんを見るとコクコク頷きながら指で「OK」を出しました。
そうして私はケイコさんの手を取り、20メートルほど沖合に向かってゆっくり泳ぎ、そこでケイコさんと並んで腰を下ろしました。
海の中の景色は美しく、同時に怖いのです。
目の前に無色透明の水がひろがっていても、視界の先に見えるのは仄暗い青の世界です。
そして砂紋をじっと見ていると、それがあたかも「動く通路」のように見えます。それがゆっくり動き出して我々を海の彼方まで運んでいってしまうのではないかという錯覚が起こります。
しかしその感覚にも慣れ、ぼんやりと目の前の景色を眺めていると、少しずつ心の中が静かになっていくのです。
しばらくして隣のケイコさんを見ると吐く息の間隔が先ほどより長くなり、ようやく落ち着いたことがわかります。
そして彼女は身じろぎひとつせず、じっと前を向いたままでした。
ケイコさんがマスクの中で
どのような目で、
砂紋に何を重ねて思い浮かべ、
どのような表情で白砂の広がる世界を見ているかはこちらからは見えません。
それまでケイコさんとは通り一遍の自己紹介しかしていませんでした。
パラオでライセンスを取った、
沖縄は約10年ぶり、
那覇市内の〇〇ホテルに滞在している
といったこと以外、例えば仕事は何をしているのか、週末は何をしているのか、恋人はいるのか、なぜ一人で沖縄に来たのかはわかりませんでした。
だからケイコさんが
「誰とも接することなく、
白砂の上にじっと座っていたい」
と言い出した理由もわからなかったわけですが、髪をゆらゆらさせながら前を向くケイコさんの横顔を眺めているうち、それは決して触れてはいけないことなんだろうなという気がしました。
しばらくして私は腰が痛くなってきたので、ケイコさんの邪魔をしないよう、そっと後ろに下がってBCを脱いでタンクをおろし、白砂の上に仰向けに寝転びました。
やがてそれに気づいたケイコさんも私の行動に賛成だったようで、彼女もBCとタンクを下ろし、私と並んでゴロンと白砂の上に寝転びました。
海底から見る水面はまた不思議な光景で、太陽が微かに輪郭をぼやかしながら波間で揺れています。ときおり小さな魚が我々の目の前を横切り、そこに私の吐く息とケイコさんの吐く息が泡となってゆらゆらと上に浮かんでいくところを眺めました。
その後、ケイコさんは今度は横向けに寝転がり、自分の腕で枕を作ってまたも沖合に向かって伸びる白砂の砂紋を眺めるのでした。
40分ぐらいそのように海底で過ごした我々は、起き上がってBCとタンクを背負いボートまでゆっくり泳いで戻りました。
ボートにあがってケイコさんが
「あ~気持ちよかった~~!
なんだか理想的な海での過ごし方が
できたわ!」
「そうですか、
それならよかったです〜」
「ねえ、今日の2本目のダイビングもまた
ここにしてもらっていい?」
「はい、いいですよ。明日また違うところ
に行ってもいいですしね」
こうして午後のダイビング計画も決まった後、我々はポイントから5分ほど行ったところにあるクロワッサンの形をした水納島という小島にボートを付けて上陸しました。
エメラルドグリーンの海を臨むビーチの木陰でケイコさんと並んで座り、持参してきた「ゴーヤちゃんぷる」の入ったお弁当やスパムのおむすびを食べ、冷えたドラゴンフルーツやシークワーサーをかじりました。
海中でいい経験を共有すると、相手に親近感を抱くようになります。
それでも私はケイコさんをできるだけ一人にしてあげなきゃと思っていたので、1日目は食事を済ませた後、そそくさと
「僕、ボートで用事してますからごゆっくり」
と言い残してボートにいました。しかしひとりでいるのも飽きるようで、ケイコさんもやがてボートにやってきて、ボートの縁に腰掛けてケイコさんとお互いのいろんな話をしました。
4日間、日中は海の中でゴロゴロしたり、
海底でフィン(足ひれ)を脱ぎ、さながら月面を歩くように白砂の砂紋の中をケイコさんと歩きまわったりしました。
夜はケイコさんのたっての希望で私が普段からよく行く、沖縄の方言が飛び交う地元のなんてことのない居酒屋、定食屋、タコライスのお店にお連れしました。
そうして一緒の時間を過ごすうち、ケイコさんについてたくさんのことを知るに至りました。
静岡の出身であること、
商社勤務のお兄さんがひとりいること、
高校までバレーボールをしていたこと、
村上春樹とゲーテの本が好きなこと、
血液型はB型、
大学で東京に出たこと、
銀座のクラブで働いていること。
華やかそうに見える仕事や日常を離れ、ケイコさんがどうして一人で海底でじっと座っていたい気持ちになったのか、その事情がわかるようになりました。
同時に、
きれいでオシャレで笑顔が素敵で、おいしいお酒の飲み方や、ちょっとした人生の機微を教えてくれたり、私のくだらない悩みを聞いてくれるケイコさんと一緒に過ごすうち、
「こんな人が自分のお姉ちゃんでいて
くれたらどんなにいいだろう」
と、恋愛感情とは違った感情をケイコさんに抱くようになりました。
・・・・・
こうしてケイコさんと出会い、それ以降何か考え事をしたいときや一人になりたいとき、私も海底でひとり佇むようになったわけです。
海底でひとり佇んだからといって、悩みや心の中のモヤモヤが晴れるわけではありません。ただ私は「オトナ」のケイコさんの真似事をしながら
「またケイコさんに会いたいなあ」
と思う、ただの青二才だったにすぎないのです。
だから翌年の大学4年の秋、ケイコさんから再び予約が入り「はびーび指名」があったとき、それはそれはうれしかったです。
前年と同じくケイコさん専用のボートを割り当て、海底で座ったり寝転んだり歩き回ったり、
ビーチでお弁当を食べて昼寝をし、夜は居酒屋で泡盛を片手にケイコさんと「ふーちゃんぷる」や「てびち」を突っつきながらいろんなお話をしました。
それ以来、私はケイコさんを「ケイコ姉ちゃん」と呼ぶようになり、ケイコ姉ちゃんが私を「はびーびちゃん」と呼ぶ関係が30年近く、細々ながらいまだに続いているのです。