見出し画像

「潮時」

「私たち、潮時ね」

映画や小説で、そう言ってカップルが別れを切り出す場面に出会うことがあります。

男女の別れ以外にも、これまで手がけていたことがうまくいかなくなったり、それを続けていても明るい兆しが見えない、だからそれをやめてしまおうと決意する場面でも

「潮時」

という言葉を使いますよね。

このように

「お違い一生懸命やったけどダメだった、
 だからもう関係を続けるのはやめよう」

とか

「自分の力ではどうにもならない。残念だけど、
 これまでのことを手放すしかない」

という気持ちを表すときに

「潮時」

という言葉を使うわけですが、そこには

「諦めを超えた深いもの」

を私は感じます。



沖縄のダイビングショップでアルバイトをしていたとき、スタッフの間でも

「潮時」

という言葉をよく使っていました。

しかしそこでは「人と別れる」とか「何かを終わらせる」という意味で使うのではなく、

「船を出すのにベストな時間」

「ダイビングをするのに最適なタイミング」

という意味で使っていました。


こうして考えると

「潮時」

という言葉には二面性があって、

「何か物事をおしまいにする頃合い」

を指すときと、

「何か物事を始める適切なタイミング」

という2つの意味があることに思い至るのです。


沖縄のダイビングショップでアルバイトをするようになって以降、私はいつしか「月」の動きと潮の満ち引きに敏感になりました。いまだにカレンダーや手帳を買うときは月の満ち欠けが載ったものしか買いませんし、それがないと落ち着かないのです。

潮の満ち引き、海面の上下だけではなく、人間の身体にも「月」の動きが影響しているとよく耳にします。

先ほど「諦めを超えた深いもの」と書きましたが、

「潮時」

という言葉を聞くと、私の中ではそれがそのまま

「月の引力」

とか、大げさに言えば

「宇宙の法則」

のようなところまでイメージや空想が飛んでいくのです。

「潮時」

という言葉からは

「人の力、自分たちの力では及ばないことが
 世の中にはたくさんある」

ということに改めて思い至ったり、逆に

「自分の意思を超えた、何か目に見えない
 ものに導かれて行く」

といったことに発想が伸びていく感じがして

「潮時」

は私が好きな言葉の一つです。

・・・・・・・・

私にとって2023年は、これまでのキャリアとお別れをするときであり、同時に新しい自分に向かうという「潮時」です。

今年2月で私がヨルダンの現場で関与してきたプロジェクトが終了し、そのタイミングで家族とともに日本へ帰国します。これで私の国際協力のキャリアは幕引きとなります。

そして家族そろってパスポートを一新し、再びヨルダンに戻って私はここで自分の会社を立ち上げることにしました。

2年前ぐらいからでしょうか、国際協力の仕事から足を洗うイメージが徐々に湧き上がってきました。去年の初めからは今後の具体的なことで悩みつつ、最終的にそう決意することになった理由はいくつかあります。

一番大きいのは、何より私も家族もヨルダンを大変気に入っており、もうしばらくここで過ごしたいという気持ちが強いことです。

「そんなにスキならもうしばらくここで
 過ごそうじゃないか」

と、ただそれだけのことと言っても過言ではありません。

中東というと「ヤバい」イメージがありますが、ここではそういう雰囲気を感じません。ヨルダンのお隣、イスラエルの米国大使館をアメリカ前大統領がエルサレムに移したときはここでも緊張が走りましたが、それ以降はあらゆることが落ち着いて見えます。

昔のNoteにいくつかしたためましたが、ここに来た当初は私も家族もストレスの塊でした。

しかし仕事の関係者や市井の人達と付き合いを重ね、カフェの片隅などに座ってここの人達をそっと眺めるうち、この国の人の暮らしぶり、生き方に共鳴、共感することが多くなりました。

これまでいろんなところに行きましたが、私も妻も、そして長男も、ここまで愛着を感じるのはヨルダンが初めてです。


また別の理由として、私自身が組織という社会的な入れ物から離れ、自分で「コレ」と思うことを自分のやり方でやりたいという、自分の中で抗しがたい気持ちが膨らんでいっているのを自覚していました。

そうなったのにはそれなりの理由がありますが、今書くと長ったらしい愚痴にしかなりません。また自分の中で消化できるようになって、気が向けば書きたいと思います。

・・・・・・・・

ということで、日本から見ればキナ臭い、中東の、イスラム世界の、砂漠の中にある、国際情勢に何の影響力もないちっぽけな国で、50過ぎたオヤジが自分で会社をやるということで

「ホントに大丈夫かいな?」

と自分でも思います。

しかし

「潮時」

なだけに、その潮の流れに乗ってやっていけばどこかに辿り着くだろうという「超絶的 楽観」しか私の中にはなく、「今年は勝負の年だ!」といった力んだ感覚はありません。


前回の投稿で

「遠くへ、もっと遠くへ」

と書いたように、私もヨルダンの次はもっと遠くへ行こうかなと思ったこともありました。何より私には世界中に行きたいところ、住んでみたいところが山ほどあるのです。

下の図は私が日々眺めているGoogleマップの一部で、

「ハート」が既に行って気に入ったところ、

「緑」が

「これから必ず行くぞ!と思っているところ」

です。

よくよく考えますと、この緑のマークはNoteで皆さんのお話を伺うことでどんどん増えていった感じがします。

上の図では見えませんが、日本にももちろん行きたいところがたくさんあります。それも日本への里帰りをしたときに足を伸ばしていこうかなと。


「潮時」ということであれこれ思うことはありますが、

これからも「はびーび」として、ヨルダンで過ごす中で感じるアレコレを力を抜いて書いていきたいと思っています。

なお、

「Noteでは私のビジネスの話、宣伝、勧誘は
 一切致しません」

ビジネスの宣伝や勧誘を受けるのは全く気にしないのですが、私にとってNoteは何よりも憩いの場です。

笑って怒って泣いて悩んで苦しんで感動して、といった感情を共有したり、新しい知識、経験、知恵、考え方、風景に出会える場所です。

私の記事に来てくれる人を「鴨葱のお客さん」というように見たくありませんし、私が「スキ」や「コメントする」ことが、わざとらしく相手の歓心を買っているように微塵も思われたくないのです。

これまで同様、これからも投稿を拝見させていただいたり、スキしたり、コメントのやり取りをする上でも

「はびーび個人」

として皆さんと繋がっていければと思っています。

これからもどうぞよろしくお願いします。

はびーび