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育休三日目(食卓で嫌いなものを嫌いと言ってはいけないのか)
今日はお泊まり会
娘の友達が二人泊まりに来てみんなで楽しくワイワイ(コロナ禍で賛否両論あると思うが、これについてはまた後日考察してみる)。
夕食にて
娘が大きな声で、せっかくもらったのに、「わたし、いちご嫌い」と一言。それに対していろいろ思うところはあったのだが、その場では何も言わなかった。
妻の子ども時代と学校給食
食べ物について、「嫌い」と言ってはダメと言われて育ったそう。たしかに。わたしも給食で子どもがある食べ物を嫌いと言ったら、抵抗感があるし、やめさせるかもしれない。ちなみに、「苦手」はOKだったらしい。
なぜ、嫌いと言ってはダメなのか
日本だけなのか、諸外国でもそうなのか、気になるところ。「嫌いと言ってはダメ」が、普遍的なものなら、人間の食べ物に対する欲求のある種の現れなのかもしれない(たとえば、狩猟採集したら食べ物を食べなられない構成員がいることは、その集団の維持に関わるとか)。
突撃カネオくんがTVでやっていた
昔は業界(教育や知育玩具などのビジネスの分野など)によっては、「お金儲けのため」という言葉もはしたないとされたようである。いまでもそのような風潮は無いでもないが、かなり潮目は変わった?(新自由主義の頃から?)
「食べ物が嫌い」と「お金儲けのため」の違い
上記の出来事からだと、食べ物について「嫌い」というのは、動物的な側面のようにも思える。一方でビジネスで「お金儲けのため」は、道徳的な側面によって嫌われているように思える。しかし、どちらも社会の維持ために起こる感情という意味では似ている。新自由主義が格差を広げている現実からも、「お金儲けのため」と言ってはいけないという言説は一定の意味を持っていたのかもしれない。
一方で、言い方を逆にしてみると
食べ物を「嫌い」と言ってよい、
お金儲けのために商売をしてよい
だと、一人一人の欲求は大切にされている気がする。嫌いなものを無理に食べさせるのは行き過ぎるとハラスメントになりそうだし、お金儲けのために商売をしてはいけないだと、いざというときに食いっぱぐれてしまいそうである。これはこれで正しさがある。むしろ、いいか悪いかという点でいえば、悪いとは言えない。
社会主義的バイアス個人主義的?
こう考えると、食べ物について「嫌い」と言ってはいけないかどうかは、単に社会と個人の利益どちらを優先するのかという話になりそうだが、どうもそれだけでは片付けられないような気もする。この違和感の正体については、追って考察していきたい。
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