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難読地名とか

私の卒業した県立高校は、創立5年目の新設校だったのですが、その時すでに特色として地理の授業で高校のある地域の郷土史教育というものがありました。

地理は1年生の時に授業としてあったのですが、入学してほどなくして、遠足と称し、近隣の史跡や条里制の跡、神社仏閣巡りをさせられました。
最後は隣の市にある神社まで徒歩でいきました。

今でも大切に持っていますが、遠足の際に拾った相模国分寺の瓦の破片が
いくつかあります。
一部には焼け焦げた跡がありますので焼失した際のものだったのかもしれません。破片といっても大きいものではなく、3cm角ぐらいのものです。

また、合格発表時に春休みの宿題を渡され入学前に白地図などを色分けしたことを覚えています。

前置きが随分と長くなりましたが、私の住んでいるところには難読地名が多くあります。
一部は難読というより、訛りが入って読めないだけなのですが、そもそも地域名自治が神奈川県の難読地名になっています。

難読地名の一部を紹介すると(差しさわりのないものだけですが)

  • 御所垣戸・・・ごしょがいと

  • 御門・・・・・みかど

屋号などでも垣戸かいとはあります。
それ以外にもいろいろとありますが、見る人が見れば私が住んでいるところがもろバレしますのでやめておきます。

上記の地名も元々、毛利荘の毛利太郎景行の館があったことに由来していますが、館跡も何もなく、ただ単に地名として残っているだけです。

これ以外にも仏教にちなんだ地名も多くあり、2つの修験道の交わる土地として根付いていたことが分かると思います。

話はちょっとずれますが、我が家の菩提寺の歴代住職の中に後北条の縁者の方がいらっしゃるようなのですが、詳しくないので、後北条の家系図の載っている本(早雲寺の開山500年記念の図録だったようです)を購入し、探してみていますが、よくわかりません。

こんなところに住んでいますが、たぶん、母が亡くなればこの土地を出ていくことになります。
昔の人であれば、代々続いた家を捨てて何事だといわれそうですが、その柵が非常に重くのしかかっているのです。

長男として生まれて一族の墓を守るというお役目を負っているのですが、
墓は守っても限界集落に住み、周りの訳の分からない仕打ちに耐えてまで住む必要はないですからね。
因習は断ち切らないといけません。
特に終戦直後に洗脳された人たちと一緒に日々の生活をするのはごめんです。

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