謝りたい
この日の続き。
仕事をしていると、夕方に偉い人がやってきた。
なにか今後について色々話したのだが、もうあまり鮮明に思い出せない。5分から10分くらいの短い立ち話だった。
先に書いておくと、この人のせいでは全くない。この上司はいつも正しい。今までも何度も導いてもらい、それでなんとかここまでやってこれた。ただこの日に話した内容は、その時の私にとって足元がスリップしてしまう内容になってしまった。ただそのきっかけだったにすぎない。
たった10分話しただけで、なぜか私は「今までのあれこれは全部私が悪かったんだ」という気持ちになってしまった。
途中で帰るわけにはいかなかったのでとにかく終業時間までは耐えた。本音を言えばもうその場で泣き出しそうだったし、大きな声で叫び出したかった。ただ社会通念上まずいので、ひとまずやり過ごすことにした。
これを書いている今、冷静になって思えば、そもそもあれは夕方でもなかったのかもしれない。日没が極端に早い冬の札幌では、ときに時間の間隔すら失われる。ほんとうは、15:30ごろだったのかもしれない。終業までの時間がやけに長く感じたのはそのせいかもしれない。
コートを着て、マフラーを巻いて、厳重な防寒をして外へ出た。とにかく家に帰りたかった。1人になりたかった。今日は車で来たわけではないので、また40分ほどかけて電車を乗り継いで帰らなければならない。
吹きさらしの市電の乗り場へと急いだ。目の前で、雪が3センチもつもっているにもかかわらず自転車に乗っている人を見た。ハンドルを少々とられながらも、器用に交差点を渡っていった。
ようやるわ、と頭の片隅でつぶやいたが、正直それどころではなかった。歩きながら、交差点を渡りながら、市電を待ちながら、ひとすじ、またひとすじと熱を持った水分が目から流れて、視界を下から濡らしていくのをぼーっと見ていた。悲しいとかつらいとかそういう気持ちを通り越して、そういうレンズを覗いているかのように。
一緒に市電を待っていた人たちは不審に思ったことだろう。あの時私が涙を流していることに気づいている周囲の人がいたのならば、謝りたい。ところ構わず涙するような、弱い人間ではなくなったと思っていた。それが傲慢だった。
市電はすぐにやってきた。朝と同じく、乗り込むと窓がまっしろに曇っていた。空いていたので、進行方向からみて後ろ側のグリーンのシートに腰を下ろす。席に座ってもなお、涙が勝手に流れ続けていた。
コンプレッサーの音を左に聞きながら前をちらりと見ると、男性1人だけが正面に座っていた。この人にも、もし私が涙を流していることに気づいていたならば、謝りたい。
この日の市電の車内のことはほんとうに、鮮明には思い出せない。朝と同じように、車内アナウンスや電車が走るモーター音などの環境音が私を取り巻いていたはずなのに、何ひとつとして思い出せない。視界が濡れて、前が見えにくかったことと、母親に「もうむりかも」と連絡をしたことだけははっきり覚えている。
すすきので降りて、地下鉄に乗り換えなければいけない。何人かがいっせいにすすきので下車した。ホームはやはり寒かった。陽が落ちているので、朝よりもさらに寒かった。そして風雪が強くなっていた。地下鉄へと向かう横断歩道を渡りかけると、濡れた右頬に強く雪が吹きつけて、体温で溶けていった。
家に帰ると部屋も体も冷え切っていた。足の感覚がなくなりそうだ。
アウターを脱いでストーブをつけるだけであとは着替えることもできず、布団のなかに入った。なるべく毛布を体に巻き付けて包まろうとした。寒くて寒くて仕方ないのに、頬と目元だけは熱かった。
親切に面倒を見てくれた人が数えきれないほどいるのに、私は何も返せず、恩を仇で返すようなことしかできなかった。他の誰のせいでもない。私のせいだ。ただただそのことを謝りたい気持ちだった。
母や、たいせつな人から私の身を心配する連絡が数件届いていた。
主に母は、私が思春期に起こしたオーバードーズやリストカット等の多岐にわたる奇行を一番間近で見ていた人間なので、死ぬな、という文言だけがとにかくたくさん送られてきた。
ここで私が携帯電話の電源を切ってしまえば、私の安否がわかる人はこの世で誰もいなくなるのだ。私がここで自らを殺してしまえば、関西から安否の確認に一番早い便で急いだとしても、"絶対に"間に合わない。その事実を考えると寒気がするほどの孤独を感じた。
何も考えられないので、長く避けていたカッターナイフをお守りのように手に握って布団に入った。
もうこの街で長く暮らしていけはしないことだけがはっきりとしていた。
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