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MILK

── 部屋に染み込むミルクの匂い。

20代前半。Mさんは、僕にとって兄のような存在だった。いや、今でもそうだ。勝手にそう思って生きてきた。
何かを失ったような気持ちになると、決まって僕は、彼のウェブサイトを開き、ずっと残されたままの古い写真を眺める。

「君も子供つくった方がいいよ。絶対おもしろいから」
彼は無責任に、そう言った。
「今は仕事が楽しいから、まぁ、機会があればでいいです」
当時の僕は、本当にそう思っていた。

そんなふうに答えてから、僕に子供ができるまで結局20年も経った。正直いうと、何年経ってもそんな日はこないんじゃないかと、幾度となく思った。
細い糸をたぐるようにして、あきらめなかった妻に、心から感謝している。


そして今年、娘は4歳になった。

Mさんと出会った頃、彼の愛娘は3歳だった。
親にとって、子供がどんなに可愛いか、今はわかる。
新生児と過ごす、静かな時間も、ミルクの匂いも。
子供の可愛さが、年々増していく感覚も。
Mさんが、娘に笑いかける時間は、いつも周りを楽しい気持ちにさせた。


僕は娘によく "ありがとう"、 と言う。
"君の朝の笑顔が好きだ"、と言う。

日々、指の隙間からこぼれ落ちる砂時計を、すくいあげるような気持ちで、娘と過ごしている。Mさんも、きっと、そうだったろう。


写真の中、記憶の中。
僕は20年前の彼に、話しかける。

(あのころ、どんな気持ちでシャッターきってたの?
 ハートつけたカメラでさ。笑)

奥の部屋から、僕を呼ぶ娘の声がした。
"寝る前のいつものミルクをください"、という意味だ。

このミルクの儀式も、今年で終わりだろうか。

僕は、そっとパソコンを閉じた。

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