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100年前、16歳の女学生だった縫子さんの日記

これは、1924年(大正13年)、私の曽祖母が16歳の時の日記である。

今日の音楽はめちゃ/\だった. なさけなくなつた どうしたものか ちつともひけない. ほんとにどうしたと云ふのだらう. でも永井先生が熱心に教へて下さるのでうれしい
夜、明日の名誉回復をするべく熱心にやる. あしたは出来ればいい
一日気分が引きたたない.
音楽學校へはいれたらどんなにいいだらう 私の心はそれ以上何もない.
その為には少し位の苦勞には絶えると神に誓ったのではないか?今日位の事でがつかりしてはならぬ. でもほんとにいやだ.

祖父母の家の整理をしていたら、曽祖母の日記がまとめて出てきたらしい。

昭和62年に79歳で亡くなった曽祖母・縫子(ぬいこ)は、大きな建設会社の創始者の孫で、ずいぶんなお嬢様だったそうだ。江戸っ子らしいきっぷのよさがあり、明るく社交的な人だったと、祖母や叔母が話してくれた。

長生きだった曽祖父は私が6歳のときまで生きていて、ずいぶん可愛がってもらった記憶があるが、曽祖母とは直接会うことは出来なかった。だから曽祖母とかひいおばあちゃんとかいうより、「縫子さん」と名前で呼ぶほうがしっくりくる。「縫子(ぬいこ)」っていう名前とてもいいし。

日記は16歳の女学校のときから、70歳近い晩年のころまであった。16歳のときは大正12年(1924年)、なんとほぼ100年前だ。
祖父母宅で保管していて、この前私が目を通せたのはほんの一部、16歳ごろと65歳ごろの日記だけ。

これは人に読まれてもいいと思って遺した日記なのかわからないのでそこは心にひっかかりながら読んでいるけど、日記をつけていること自体は祖母も知っていたらしいので、内緒のものだったわけではないみたいだ(ちなみに先月亡くなった祖父も何十年も毎日欠かさず日記をつけていた)。
内面の吐露が書いてあったりもするが、どの日記も節度のある美しい文章が小川のような字でさらさらと綴られている。

私も日記は何年もつけているが、死ぬ前に絶対に焼き払いたいような文章ばかりなので、公開もしない日記でなんでこんなに綺麗に書けるんだろうと思ってしまう。
縫子さん嫌かな……と思いつつ、素晴らしすぎてどうしてもnoteにまとめないではいられなかった…。縫子さん、嫌だったら夢枕で伝えてね!頼むね!でも私のnoteそんなにたくさん読まれないし、めちゃくちゃ文章いいから大丈夫だよ!


さて、冒頭の日記であるが、縫子さんは女学校を出た後、音楽學校でピアノを学びたかったらしい。この頃の日記はピアノや勉強についての記述が多い。
「早く起きたのに一日勉強出来なかった…つらい…」という日記があったりして、身に覚えがありすぎてにこにこしてしまった。なんか励まされる。

今朝はめづらしく早く起きた. ふとんの中で日記をかいて一ねいりして起きた. 午前中少しだけピアノをひいただけであとは探貞小説によみふける. 今考へるとほんとうに惜しい時間をつぶしたものだ. 午後、久しぶりでしばらくピアノを弾く. 夕方高原へ鉛筆を買ひに行つたかへりに右田さんのお母様におあいした。さそはれるままに右田さんのところへ行き 妹さんや宮沢さん吉田さん方と歌留多をとり、九時頃になつてかへる. 夜、今朝の計画がはがれてすつかり遊んでしまつたので、心苦しくてたまらない. 三學期はうんと勉強したいと決心した. 神よ、この弱い心を助け給へ.

(最後に神に祈るのかわいい)

そもそも当時は上の学校に行けるかどうか自体を悩んでいたみたいだ。次の日記なんかは、当時の女性の抑圧、未来への選択肢の少なさがありありと伝わってくて胸が苦しくなる。お金持ちだった縫子さんでさえこうだったのだから、いわんや一般家庭をや、ということだったのだろう。

私はあきらめた. 私はほんとにあきらめた. しょせんは女と云ふものは、男のおもちゃになるものである. 女髙師だの、音楽學校だのそんな所は私の住む所じゃない. 普通の女以上に勉強し様とした事が私のまちがひである. 私はあんなに/\あせつて、とう/\こんな事になつたのか. 私にとつて女學校以上の教育はほんとにチョツピリしか出来ないのだ. それに私は満足しなけりやならない. だめだ.これからはお金だ. 出来るだけ自分をいつはつて、よい旦那でももらつて、お金で快楽をとるのだ. もし結婚に破れでもしたら、私は死ぬ. 他に何の楽しみがあらうか.(専門學校について両親と相談した夜)

ちなみに私はこの日記を読んだ後、隣にいる叔母から、縫子さんが東京音楽学校(今の藝大)に進んだことを聞いて、「縫子さん!!!!!良かったね!!!!!」って感涙した。曽祖父を結婚した後も自宅でピアノの先生をずっと続けていたそうだ。
ピアノを弾かなきゃいけないのに遊んじゃったと反省し、親に進学を反対されて筆が乱れる16歳の少女をぎゅっと抱きしめたくなった。


一方、めちゃくちゃ飛んで、65歳ごろの日記は、
夫や息子(私の祖父)や孫たち(父や叔母)を心配し気遣う文章が多くありながらも、晩年の寂寞感が滲み出ている。乳癌を患ってピアノが弾けなくなった頃から、落ち込みがちになっていたようだ。

私は老人である 世の中に忙しく働く人に物を[?]んではいけないのである. 老人は一人なのである.
あの人もこの人も亡き梅雨の庭
九月二十五日
花ともなく実ともなき冬の野面かな
六十路過ぎ何をかわづらう枯尾花
荻そなえ父上の加護祈らばや
一二月三十一日
わびしきは年老いてきく除夜の鐘
昭和四十七年一月
一月一日. 老夫婦、義惇夫婦、孫二人、中沢夫婦、遠藤夫婦(孫二人)、島夫婦、孫二人
一家繁栄、平和にして幸せな日々.
風となく光のどけき春なれど なぜにともなくもの悲しける
一月七日
晝(ひる)のテレビでモツアルトをきく アベ・ベルム・コルプスのレコードは美しい. そのうち買つてきて私の死んだ時にお経がわりにかけてもらう事にしよう.


16歳、自分の将来に思い悩む縫子さんと、
子供の成長を心配する縫子さん、
周りに迷惑をかけず死んでいきたいと綴る縫子さんが、ここに一箇所に在る。

縫子さんは幸せだったのだろうか。まあ幸せだったんだろうが、幸せって何なんだろうか、とか思ってしまう。
由緒と財力のある家に生まれて、当時の女性には珍しく音楽学校を出て、結婚し、戦争を生き延び、子供と孫に恵まれ、多くの人に見守れながら死んでいった。それだけ聞けばなんと恵まれた一生だろう。でも、「風となく光のどけき春なれど なぜにともなくもの悲しける」と詠んだように、幸せなのに悲しい、と綴る彼女の一生とは何なのだろうか。

長くなるので続きは次回にします。


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