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事業会社を始めて、そして閉めた話(その19)事業会社の頃を今振り返る。

 しばらく間が空いてしまいました。

 ようやく、週一のペースで通勤をしています。入出国の様な検温装置やエレベータの乗員制限、出社率の厳密な事前調査などありますが、何とか回っています。通勤費も定期ではなく、実費清算となった。

「オフィスいらない論」は結構出ていますし、ある程度そうも思って来ましたが、1点改めて良いと思ったのは、仕事”のみ”に集中できる事。「仕事場」ってことですね。5%くらいに出社が制限されているので、言ってみれば昔でいう休出の状態で、これが捗る。

休出と違うのは、打ち合わせ数は平時通りなので、Web meetingが前提では、リアルの方が設備やハウリング問題、会議室のドア締め切りもできないのでやりにくいと言った事はありますね。でも、元々はここにびっちり並んで仕事をしていたんだなとガランとした膨大なフロアを眺めていると、この賃料を今後払い続けるということは有り得ないのだろうと思う。

そして、わちゃわちゃしたサラリーマン生活的な文化、これは無くなるのだろうと。欧米みたいになるんですよね。きっと。

 この間、パッと書いて投稿したものが1件あったのですが、やはり何回か推敲しないとダメですね。。。勢いで上げて後から読んだらなんだか焦点が定まっておらず下げました。やはり素人は研鑽が必要。反省。いずれ修正して再アップします。

もとい、今の自分であれば、閉じた事業会社のそれぞれの局面をどう考えるか、そんな所で終わっておりました。続きです。

◆ ◆ ◆

 合弁の事業会社は事業意図がクリアな小組織で、株主とも直接コミュニケーションが出来る立場だった。自分はそんな中、出資した株主の事業体の戦略に貢献できるように施策をとっていただろうかと今考えると、自分の思いの実現場所、居場所としてしか行動していなかったのでは無いかという反省があった。

今の自分ならそれぞれの局面をどう考えるか、最後、「事業会社を起こし、そして閉めた話」全体を振り返ってみようと思います。

大枠以下の時期に分類できます。

1.出資者、株主の戦略と一致していた創業期。

2.戦略がフィットしない株主が出始め、株主の思惑が入り組んだ迷走期。

3.各社状況の変化により、出資の目論見や戦略が無意味化して行った時期

4.技術の陳腐化、開発力喪失、当初の株主意図からの完全な乖離、サロン化

5.ユーザの為のサステイニング及びサバイバル期。

6.事業閉塞

まず、会社は株主のものと言いますね。これしつこいですが本当にそうなんですよ(笑

遠い昔の創業の大きな上場企業にいる方は実感得難い向きもあるでしょうけど、起こした合弁は、株主のビジネスに、サービス事業とそのPFを起こして貢献する為に出来た実にクリアなミッションだったから、更にそうだった。

●2のあたりですべきだった事

 株主企業向けの準備を整え、サポートしていくにつれ、企業によって本質的にこの会社を利用出来る出来ないの差が大きく生じる事がわかって来ました。株主の中には、とりあえず乗っておき、いざとなれば株主の比率の発言力はある訳だから、何とかしてくれるだろうという向きも有った。

本来は、どうしても厳しければ、新株主も考慮しつつ、株主比率を変える、もしくは同じ船に乗っている前提で、一番bottom合わせでサポートを標準にするなどすべき。しかし後者にすると自力のある企業からクレームがくる。また、初期の一定比率の投資者には、ライセンス費用に当たる金額を投資額分までは免除する特権が有り、それが仇になって各社動きづらい自縄自縛に陥った。

業界が全部集まっているというもう一つの事業の意図もあって、荒れる場を作ることができず、対応がどっちつかずの中途半端な物になっていきました。この時点で株主間で腹割って話し、素早く割り切って戦略の見直しをすべきだった。
トリガーをかけるのは当時代表の役割だと思いますが、新しいものや華々しいプロモーションで目くらましをさせるばかりであった。

●3のあたりでやるべきだった事

中盤、経営難に陥る株主も出てきて、だんだん出向元ともう2社くらいの要求しか満たさなくなった。それら企業からの要求は、粒度もバラつき、合弁の枠組みから考えると身勝手になる。ここでハッキリと事業会社の目的を株主と再確認し、戦略を修正すべきであった。

この頃になると、取り巻きも去り、創業時と同様に、株主への事業説明などは外部に信頼されている私が、再び社長と回る事も多かったんですが、その役割であったからこそ、積極的に提言すべきだった。

実際日常業務でも手一杯だった訳です。コンテンツ編成やら、ライセンス作業などに邁進する自分の充実した”居場所”のニュースをアピールしてしまった。

株主に向けては、結果的に初代社長と同じ事をやっていたのだと苦く思い出します。

●4、5のあたりでやるべきだった事

株主側はどうかと言えば、初代の役員はともかく、皆サラリーマンの部長、事業部長クラスで専業の人員でもなく、意見も言えないけど、全く業界知らない体も取れないので発言は少なくなる。期も重なると前例も積み重なり、そう行ったものかとさらに言わなくなる。

そして、一番重要度の高い株主、出向元にとってもサステイニングの意味しかなくなった時点で、当然はっきりと思い切るべきだった。

この時点で、最小にシステムを切りまとめ、パートナーに一部吸収してもらう選択を進めるべきだった。そうすれば、事業収束をしても自分はまだその業界で働いていたかもしれない。

◆ ◆ ◆

こうしてあらためて振り返ると、何度も、重要な局面があった訳です。

でも、当時の私は事業会社が出来てから、結果的に自分の”居場所”はこんなに素敵だ、可能性がある、活用してくださいというばかりだった。もちろんこれは間違いで、その会社は「株主のもの」な訳です。株主は株主で企業のサラリーマンかつ事業側である事が多く、「既にある会社からの提案」として見てしまうきらいがあった。で、悪循環となる。

競合同士の合弁ですから、胸襟を開いて話すということが難しいという性質は常に付いて回る事では有りますが、自分は割とそこに入れるタイプであった。それだけに裏表の露骨な態度で出向元の社員は不信をかっている中で、時に対立もする形で、”合弁”の平等性を担保する人間として立っていようとし過ぎた。

同じ立場の経験者ならわかってくれると思いますが。

そして皮肉なことに、それだけが成果があった。

結果、事業でなく各社が平場で話せる、珍しいサロン的な場という価値、それだけが株主に残ったという訳です。

ブレの多い、夜郎自大な自分の過去の姿を、今深く反省する訳です。

続きます。

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