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気づいたら(恋)愛至上主義だった

気づきたくなかった。

恋愛感情は全部錯覚と勘違いで、誰かに依存したい人間の心理の形がカップル。

勘違いしたままの方が絶対楽しい。
冷めてしまった。元々存在しないのに、魔法が溶けたみたいだった。
一度も魔法を使わずに終わってしまった、誰とも付き合わずに、向き合わずに、考えついてしまった。

誰かを愛して一人の相手と向き合い続ける、最高に素晴らしいじゃないか。愚かだとしても生き方の一つとして他と比べることはできない。同等に素晴らしいじゃんか。私もしたいのにきっと自信のなさを言い訳にしているだけ

魔法だったとしても魔法にかかったままの方が圧倒的に幸せだ。正論だけが正義じゃないんなら、キラキラした正義の方が、その方が羨ましい。


できない3人

誰かを死ぬほど愛して避けないで真正面から向き合い続けてみたい自分、だけどそんなの恋愛至上主義と馬鹿にする自分、結局やってみなきゃ愛してみなきゃ分からないのにもしかしたら他の生き方と並行して両立できるかもしれないのに好きという気持ちはあるのに何も行動に起こさずにいる自分。

乖離しすぎている。理想のありたい自分と、理想を信じきれない自分と、今ある自分が乖離しすぎている。2面性どころか3人もいてしまっている。なにより3人の誰も、お互いに影響されるあまりどっちつかずで、どうにも行動しなかった。それがまた、煙た苦しくお互いを苦しめた。


極右(日和見)平和主義者

恋愛感情:誰かを独占したい「気持ち」

なんだとしたら私にはある。だけどその感情は不定期に、特に初期、出会ってその人をよく知ろうとする好奇心から生まれて、表れてそして消えていく。消えていくというか、減っていく。
私の恋愛感情というのは、好奇心から生まれる一定期間の独占欲でしかないみたいだ。
ある程度知っていくと好奇心と共に独占欲は消えていった。こう文字にすると、ひとへの興味が短期間しか続かない冷たい人間みたいだ。そうじゃない、はずなんだけどそれさえ自信がない。(恋愛感情が分からない、私のクワロマンティックな面がこれなんだろうな)

代わりに増えるのが「愛」情で、どんどんどんどん好きになっていく。愛おしくて嬉しくてあったかくて、好きでしかないのだ。そこに「付き合いたい」とか「一緒に住みたい」とか「人生の経験を共にしたい」とかは含まれてこなかった。相手がどうあることが幸せなのか、どうすれば私は相手と一生コミュニケーションをとれるのか、考えた結果、近づきすぎず手放すことが正義だった。それしかなかった。何度考えてもそれにたどり着くし、そうとしか思えなかった。

幸せでいて欲しいし、幸せでいたい。いや、相手を想ってというより自分に訪れそうな不幸を恐れている。「付き合う」ことで迎えるであろう「別れ」に耐えられる自信がない、怖くて、生活や文化や意識の違いで相手に気を遣われるのも衝突が起こるのも、依存関係になるのも、何もかもがいやだ。ただ自分の正義に正直で自由でいたいだけだった。自分の中ではそれが最善だった。

恋愛感情が初期に生まれて、愛になってそれで終わればいいのだ。生涯仲良くいられれば願ったり叶ったり。だとしたら何の問題もないのだ。

なのになぜ私は自分の愛観を悲観しているか、それは多くの相手は、当たり前のことだけど、私とは違う考えを持っているからだ。それで終われないから、展開が待っているから。

大体私はその後、失愛する。
保っていたはずの私にだけ日の当たる、その自己中心的な平和が崩れる。

相手がヘテロであれバイであれゲイであれ、なんだっていい、結局みんな誰かと付き合うから。私じゃない誰かとの人生を決めるから。


付き合いたくないのに誰かを求めてる

つまり、そういうことである。


は????

正直、自分でもよく分からない。付き合いたくないくせに、相手が誰かと付き合うと寂しく思うなんて、結局その間も「誰とも付き合わないで欲しい」という独占欲(恋愛感情)が働いてるではないか。(結局たぶん付き合いたい)

めちゃめちゃに訳が分からなくなっている。

考えすぎて疲れたところで、気づいた。

私は誰かを求めている。めちゃめちゃ「愛」に執着している。

セクシュアリティのラベルが見つかっていないとかじゃなくて、私は克服したい、信じたいと思っているのにできていない「問題」であるからだ。

そもそも愛情が何かとか自分の価値観において重要事項にしていなければ、ここまで自分のセクシュアリティを深掘りしようともならないはずだった。

私は「恋愛至上主義になりたくない」(前回の投稿でそれっぽいことつらつらしてた https://note.com/byowan/n/ncfcf6fbc5ec4 )と理性では思いつつ、めちゃめちゃ「(恋)愛至上主義」だった。


恋愛の仕方が分からない恋愛至上主義者

感情のままに行動したかった。感情に素直でいたかった。

SHISHAMOの
 面白くもないのに笑ったりしない
 悲しくもないのに泣いたりしない
 辛いときに前を向いたりもしない
 泣きたいのに笑ったりしない
あの歌が好きだ

けどずっと分からない。感情はたしかにあるのに素直な行動が分からない。好きに即した行動って、なんなんだ。好きなのに何も行動に起こさない自分が訳わかんない、というか、自分がなにをしたいのか分からない。だけど感情は確かにあるから、あると感じられているから、なにか苦しかった



私、わたし

誰かを、誰かからの愛をずっと求めている、必要ないと言いながら飢えているその矛盾が苦痛だった

でもあるときふっとよぎった 突然見えた

あー私、わたしから愛されたいんだ、それだ。

他の誰でもなくて、自分のことを認めてあげたいのにできなくてしんどいんだな
それに気づいてもまだ全然、自分を憎むことの方が多い訳ですから(文面では自分に言い聞かせて人生悟ったような自己肯定できてます雰囲気してますけど笑)結果解決してないんだよ、ないんだけど、悩んで当たり前って思うようになったというか、自分の気持ちに共感したというか、自己受容ってやつをひとつ、達成したのかもしれない。

3人目の自分を待つ

実は今気になっている人がいる。(人生で2度目、4億年ぶり、こういう所はデミロマ気質だなとか考える(知らんがな^_^))
それでいてまた、その子のことが気になっているのも好意の返報性が働いているだけなんだろう、と冷めた私がいる。(なんやかんや調べてたら、ここまでに吐いたような私の「普通じゃない」らしい恋愛観はアダルトチルドレンの気質のせいらしい。クソッ、恋愛にまでAC首突っ込むなよってキレたくなる^^)

だけどそれでいい。もう一人の私は、好きならなにかアクションしてみないの?なんでそうやってまた相反する行為しかできないの??って焦っている。し、ちょっと前の私だったらその私の声に賛同して、立ち尽くす私を追い込んで奮い立たせている気になってたと思う。

確かに、もしかしたら私は一生誰かを愛せないのかもしれない。きっとそれはたまに孤独を感じさせるし苛立たせるかもしれない。
だけどそれでいい。それよりも弱い立場の私を優先する。誰かを愛するよりもなりたい私になる方を優先する。優先したい。自分のために。もう自分に失望するのは疲れた。

勿論まだ心のどこかで未解なその、「好きに即した行動」をできる自分になりたいと思っている。自分以外の誰かを愛せる人に強烈な憧れもまだある。だけどまずは、それをできない私が追いつくのを私は待つ。遅いといって責めたってしょうがないんだもの。

これでまたすこし、鏡に映った自分と目を合わせるのがちょっと、ちょっとできるようになった気がする。少なくとも斜に構えたり鏡を異様に避けることはやめれたはず。

恋愛主義者になりたくなかったのは、愛を知りたくて感じたくて、なのに分からなくてできない自分が悲しくて寂しくて自己否定することで自己防衛してたんだろうな。(てかぶっちゃけ私の主観だけど恋愛してる人は「愛」やら「恋」がなんだ、なんて分かって恋愛してない。彼らは行動派だった。)

私に限ったことじゃない。私たち一人ひとりみんなが不完全で、というか完璧や不変なんて存在しなくてあるのは私たちが作り出した理想だけ。


気づいたら恋愛至上主義者だった(笑)


生きるコツはおもしろがることだと、ここ最近信じている。
悩みは悩んどけ、悩みを楽しめ、悩めるだけ恵まれてんの、ただし問題は解決せよ。悩みと問題は見極めろ。

今目の前にある環境と人、悩みと夢、大切にしてこ。
しなやかであれ。鉄の女はいらん、水であれ。水、氷、水蒸気、飲料水、海、津波、雨、やわらかく、強くあれ。コーリー・マシューズとはちがう、私の思う「生きるコツ」だ。

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