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追儺(ついな)の果て

私の母は昭和20年代の中頃、結婚前の一時期、兵庫県芦屋市のとあるお屋敷でお手伝いさんとして働いていたことがありました。
お屋敷には母のほかにも3、4人の使用人がおり、近所には同じように数人の使用人を置いているお屋敷がいくつもあったそうです。
これはそんなお屋敷のひとつに勤めていた、小林さんというお手伝いさんから母が聞いた話です。

小林さんが働いていたのは、昭和20年の大空襲でも焼失を免れた、古くからある大きなお屋敷でした。
当時屋敷に住んでいたのは60代のМ氏とその妻だけで、3人の子供たちはみんな独立して家を出ていました。

屋敷の主人М氏は、戦前は軍需産業で財を成し、戦後は折からの朝鮮戦争の特需で儲けていた人で、金持ちではありましたが、世間的にはあまり良い噂のなかった人物でした。

昭和26年の年はじめ、他家に嫁いでいた長女が、二人目の子供を出産するために、3歳の息子をつれて実家であるお屋敷に帰って来たのだそうです。
М氏の長男と次男は独立してはいましたが、まだ結婚はしていなかったので、外孫ではありましたが、М氏夫妻は初孫のこの3歳の男の子をとても可愛がっていました。

同居を始めて約一ヶ月、М氏夫妻は孫にねだられるままにおもちゃやお菓子を買い与えて、大いに孫馬鹿ぶりを発揮していました。
そんな中、2月に入りМ氏は突然「鬼やらい」の行事をすると言い出したそうです。

「鬼やらい」は「追儺(ついな)」とも言い、要するに節分の豆まきのことです。
これまで、そのような伝統行事にはまったく関心のなかったМ氏の突然の発言に、周囲の人たちはおおいに驚きましたが、これも可愛い孫を楽しませてやろうという孫馬鹿から出た思いつきなのだろうと、渋々従うことにしたそうです。

どうせやるなら本格的にしようというМ氏の一言で、豆は近くの神社に一晩お供えしていたものを用意し、玄関先には焼いた鰯の頭を柊の枝に刺した「焼嗅(やいかがし)」を飾って準備を整えました。

豆まきは、鬼を追い出すように、屋敷の奥の部屋から順番に撒いて、最後は玄関に撒くのが基本です。
窓や戸を開けけ放って「鬼は外!」と言って豆を撒いたら、鬼が戻らないようにすぐに戸や窓を閉めてから「福は内!」と部屋の中に撒くのが正しい作法とされています。

2月3日の節分当日の夜は、運転手をしていた使用人に、どこの骨董屋で探してきたのか、古い赤鬼の面をかぶらせ、М氏と3歳の孫を中心に、小林さんたち使用人までもが、手に手に豆の入った枡を持って「鬼は外、福は内」と、皆大きな声で豆を撒き、鬼役の運転手に豆をぶつけたのでした。

小林さんたち使用人は、あとの掃除の大変さに内心文句を言いながら、М氏に命じられるまま、広い屋敷の隅々まで豆を撒いていきました。
屋敷の中をあらかた撒き終わり、敷地の隅の、普段はめったに開けることのない、古い土蔵の中に豆を撒き始めたときのことです。

「鬼は外」と言いながら二、三度豆を撒いたときでした。
土蔵の奥の暗がりから、急に人の背丈の倍はあろうかというほどの、大きくて真っ黒な人影がぬっと立ち上がり、土蔵の外へ一目散に飛び出して行ったのです。
その場にいた小林さんはじめ使用人たち、皆あっけにとられて、影の後ろ姿を呆然と見送るばかりでした。

使用人の中には、影の頭に2本の角があったと言う者もいましたが、小林さんにはただただ黒い大きな人影としか見えなかったそうです。
結局その不思議な出来事はМ氏に報告されることなく「鬼やらい」の行事は終了したのでした。

その後、しばらくの間は何事もなく過ぎましたが、やがてМ氏の一家に厄災が訪れはじめました。
まず、生まれてきた二人目の孫が命名を待たずに亡くなり、3歳の男の子も風邪をこじらせて生死の境をさまようこととなりました。
М氏も相場で大きな損失を出して、1年とたたずにお屋敷を手放さなくてはいけなくなったそうです。

「それまでけっこう悪どいことをして儲けていたらしい人が、孫のために妙な仏ごころをだして、珍しく鬼やらいなんかしたものだから、あの家に憑いて栄えさせていた、福の神はおろか、鬼や悪運までもいっさいがっさい追い払ってしまったためじゃないかって、みんなで噂しあってたのよねぇ」
幸い近くのお屋敷に再就職できた小林さんは、そう言って首をすくめていたそうです。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
テーマ回「鬼(般若・鬼ごっこ等含む)に纏わる話」
2024.2.17

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