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化粧

これは、とあるバーのカウンターで、Sさんという中年の男性が語ってくれたお話です。

Sさんが30代半ばだったある年の12月。
クリスマスも近い休日に、荷物持ち兼お財布係として、奥さんのデパートでの買い物につきあわされる羽目になったのだそうです。

婦人服やランジェリーなどの売り場で奥さんが試着する間、Sさんは男ひとり居心地悪く、長い時間待たされたあげく、最後は1階の女性化粧品売場に連れていかれました。

Sさんは子どものころから、デパートの女性化粧品売場が苦手でした。
あの妙に白々しく明るい照明と、なんとも言えない強い匂いに、まるで異世界の中を行くような心持ちで、通り抜けるだけでもクラクラした気分になるのでした。

奥さんは好みのメーカーのブースに行き、カウンターで美容部員となにやら話しています。
これは長くなりそうだと思ったSさんは、売り場のはずれ、壁際に設けられた休憩用のベンチに向かいました。

提げていたいくつかのブランドのロゴ入り紙袋を脇に置き、Sさんは小さなため息をつきながら、ぼんやりとあたりを見渡します。
休日とはいえ、化粧品売場のはずれはお客の姿もまばらで、彼は大きな背伸びをして(当時はまだ禁煙ではなかったので)タバコを取り出して火をつけました。

タバコを吸いながらあらためて周囲を見回してみると、
Sさんがが座っているベンチから3、4メートルほど離れた所にあまり聞いたことのない海外メーカーの売り場があり、そこが化粧品売場のもっとも端にあたるようでした。

そのブースにも他のメーカー同様、カウンターといくつかの椅子が用意されていましたが、
ふと気づくと、その一番端のSさんに近い側の椅子に、ひとりの女性が座っていました。

黒髪のボブカットに白っぽいブラウス、黒のタイトスカートとストッキングにピンヒールというその女性の姿は、斜め後ろからとはいえ、Sさんにはとても魅力的見え、思わず吸っていたタバコをもみ消して見入ってしまうほどでした。

「しかし、彼女はいつのまにあそこの席に座ったのだろう?」
女性を見つめながら、Sさんはぼんやりと考えました。
接客をする美容部員もおらず、女性は一人、カウンターの上に置かれた鏡を覗き込みながら、黙々と化粧をし始めました。

女性の前には、これもいつのまにか化粧道具が一式ならび、まるで自宅の化粧台に向かうように、落ち着いたようすで化粧を始めたのです。

ベースメークからアイシャドウ、ビューラー、アイライナー、マスカラと
慣れた手付きで手際よく進めて、仕上げのリップを塗る姿まで、Sさんは我を忘れて見つめ続けていたのでした。

女性は最後にチークをつけ終わると、いきなりクルリとSさんの方に振り向きました。
その顔はモデルか女優かと思うほど美しかったとSさんは言います。

振り向いた女性はSさんにむけて、にっこりと微笑みかけました。
その笑顔にしばらく見とれていたSさんでしたが、いきなり、3メートル以上離れていたはずの女性とSさんの距離が縮まったのだそうです。

まるでズームアップしたかのように、女性の顔が目の前50センチほどの距離にいきなり近づいたのです。
そして、間近にみたその笑顔は、ストップモーションのように動きがなく、
なにか貼り付いたような感じでした。

Sさんは驚くのも忘れて、呆然と女性の顔を見ていました。
すると、微笑んだまま凍りついてしまったようなその顔の両頬あたりに、細かなひび割れが出来始めたそうです。
そしてそのひび割れはしだいに大きくなり、見る見るうちに顔全体にひろがっていきました。

やがて、最初にひび割れが出来始めた頬のあたりから、タマゴの殻が剥けるように、ぽろぽろと崩れ落ち始めました。
右頬、左頬、額、鼻と、まるでジグソーパズルを崩すように剥がれ落ちていきます。
そして、剥がれ落ちた顔のかけらは、胸元あたりで淡雪のように次々と消えてゆくのでした。

眼の前の顔には、しばらくは両目と微笑んだ口元が残っていましたが、それも、右目と眉がゆっくりと傾きながら崩れ始め、左目とその眉も少し遅れて剥がれ落ちていきました。

あとには、真っ赤なルージュを引いた口元だけがSさんに向けてしばらく微笑み続けていましたが、やがてその口元も傾くように滑り落ちて、あとは肌色一色の、すっぴん状態のマネキンのような顔面があるばかりでした。

この時点になってSさんは一気に恐怖を感じました。
止めていた息を悲鳴とともに吐き出そうとしたその瞬間、「あなた、ちょっと、あなた!」という奥さんの声でハッとわれに返ったのでした。

気がつくと目の前には買い物を終えた奥さんが立っており、あの女性の姿はありませんでした。
Sさんはわけがわからず、今あったことを奥さんに説明することもできずに、ただ呆然とした思いで立ち上がり、奥さんのうしろについてその場をあとにしました。

最後に振り向いたSさんの目に見えたのは、ふたたびカウンターに座り、化粧をしはじめるあの女性のうしろ姿だったということです。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
恐怖体験受付け窓口 特別回「ご投稿限定配信2」
2022.12.12

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