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真夜中のドアチャイム

これは現在30代なかばのエリカさんという女性から聞いたお話です。

18歳の時、彼女は大学進学を期に上京して、都下のとあるマンションに住むことになりました。
都心からは少し離れていて、最寄り駅までの距離もややありましたが、彼女が通う学部のキャンパスには近く、経済的に無理をして学費や生活費を援助してくれる両親のことも考えて、比較的家賃の安いそのマンションに決めたのでした。

マンションは築20年の5階建で、全室ごく一般的な1Kの間取りです。
しかし、立地条件なのか築年数のためなのか、空室がちらほらとある状態でした。
彼女はとりたてて気にすることなく、3階の角部屋、308号室を選び、3月末に入居したのです。

そして、引っ越してきてから1ヶ月ほどたったある真夜中のことでした。
「ピ~ンポ~ン」
トイレに立ったエリカさんの耳にどこからか小さくドアチャイムの音が聞こえてきました。
そのあと、ぼそぼそと喋る女性の声も聞こえてきます。
〈誰だろう?こんな夜中に…〉と思っていると、しばらくして再び
「ピ~ンポ~ン」と、ゆっくりとした調子でドアチャイムが鳴りました。

〈あっ、オートロックを解除したんだな〉エリカさんはぼんやりとそう思いました。
音がしているのはひとつ上の階の408号室、彼女の真上の部屋のようです。
静かな深夜のことなので、階下のエリカさんの部屋にも、その間延びしたようなチャイムの音は、意外にはっきりと聞こえてくるのでした。

しばらく耳を澄ましていると、鍵を開けるかすかな音ののち、玄関ドアを開ける気配がします。
そして、小声で話す男女の声が短く聞こえたあと、扉の閉まるくぐもった音と小さく施錠の音が聞こえました。

エリカさんは、なおもしばらく聞き耳をたてていましたが、それ以降はなんの物音もしませんでした。
話し声も床を歩くような音もまったく聞こえず、あたりは元の静けさに戻っています。

〈話し声も生活音もなしか…〉
暗い天井を見上げながら、そう考えていたエリカさんでしたが、突如ハッと思い出したのです。
〈408号室はたしか空室(くうしつ)のはず!〉
そうでした。入居時に挨拶回りをしようとして、彼女自身が空室であることを確認したのでした。

〈わたしが気づかないうちに誰か入居したのだろうか?〉とも思いましたが、ではなぜドアが閉まって以降、なんの物音もしないのだろう?
そんなことをあれこれ考えながら、その夜はいつしか眠ってしまいました。
しかし、この日から3日か4日に一度くらいの割合で、真夜中にドアチャイムの音が聞こえてくるようになったのだそうです。

深夜、エリカさんがトイレに立ったのを見計らうように、上の部屋でドアチャイムが2度鳴り、玄関ドアが閉まる音がする…
いつもこれだけで、エリカさんには特に実害はないので、少し気味悪くはありましたが、怖さはあまり感じませんでした。
ただ、もしかして不審者が入り込んで生活しているのではないかという、別の恐ろしさが頭をもたげてきたのです。

エリカさんは意を決して、これまでに起こった事と、不審者がいるのではないかという心配を管理人に相談してみました。
60過ぎの人の良さそうな管理人は、
「あの部屋はこの2年近くずっと空き部屋なんだけどなぁ」と不思議そうな顔をしていましたが、
「ちょうどこれから4階から上の清掃に行くので、よければその目で確かめてみますか?」と言ってきたのです。

エリカさんは空き部屋と聞いて一気に怖さを感じたそうですが、怖いながらも管理人の言葉に同意して、ふたりで4階へと昇っていきました。
4階に着くと管理人はエリカさんをドアの近くで待たせておいて、ひとり408号室の中へと入っていったのでした。
やがてドアから半身を乗り出して、彼女に手招きします。
恐る恐る近づいて中を確認したエリカさんでしたが、部屋の中は彼女の部屋と同じ間取りの、ガランとした空間があるばかりでした。

しかし、そのあとも真夜中の一連の物音は、不定期に、けれど止むことなく半年ほど続いたのだそうです。
ですが、マンション内で他の住人から苦情が上がることはなく、エリカさん自身もいつしか慣れてしまって、そのまま放置していました。

そして、10月最初の夜のことです。
いつもどおりチャイムとドアの音を聞いて、再び眠りについたエリカさんでしたが、突然天井から聞こえてきた大きな音で目が覚めました。
時計を見ると午前3時半を指しています。
上の部屋の音は、ドタドタという足音に続き、男女が言い争う大きな声が聞こえ、何か重い物の倒れるような音がして、そのあとはまた痛いような静けさが戻ってきました。

エリカさんは驚きと恐ろしさに身を縮め、布団に潜り込んでいましたが、なぜか周囲が騒ぎ出す気配がありません。
〈みんな寝ているんだろうか?警察に通報しなければ…〉
そんな思いが頭の中をぐるぐると駆け巡るのですが、身体は怖さでまったく動かすことができませんでした。

やがて夜が明けても緊急車両が到着する様子はありません。
マンションでは誰一人騒ぐことなく、いつもと変わらない朝が始まっています。
それでもエリカさんは、「通報しなかった」という罪悪感に怯えながら、二日ほどは部屋に引きこもっていました。
しかし、相変わらずなにごとも起こらず、それどころかあの夜以来、チャイムとドアの音がしなくなっていることに気づいたそうです。

やがて時がたち、年が明けて、エリカさんの中で恐ろしい記憶も薄まった4月の連休前、再び真夜中のチャイムが聞こえはじめたのでした。
昨年と同じように3日か4日に一度、ドアチャイムの音と男女の話し声、そして扉の閉まる音が聞こえ、そのあとは無音の状態が続きます。

エリカさんとしては、できれば引っ越したかったのですが、経済的にそのような余裕はありませんでした。
しかたなく、なるべく夜中にトイレに起きないように我慢して、できるだけ考えないように暮らしていくことに決めたそうです。
それでも10月1日のあの大きな物音だけは、寝ている彼女を起こすには十分だったといいます。

結局、大学卒業までの4年間、エリカさんはこの異音のサイクルを4度経験したわけですが、その意味を知ったのは大学卒業間近のことでした。
朝夕の散歩で親しくなった近所の犬好きのおばさんが、世間話のついでに
「よくあのマンションで4年間辛抱したわねぇ、何事もなかった?」とサラリと聞いてきたのです。

聞けばあの408号室では、むかし若い女性が痴話喧嘩の末に愛人に刺されて、搬送先の病院で亡くなったのだということでした。
それ以来、妙な噂が絶えず、事情を知っている人は入居をためらい、何か怪異を経験した人はすぐに引っ越すため、空き部屋が多いのだということでした。

「でも…」とエリカさんは言います。
「実際にわたしが体験してみて思ったのは、あれは女性の恨みとかそんな陰湿なものじゃなくて、もっと乾いた感じの、あの部屋に刻まれた記憶…いえ、記録だったんじゃないかということでした。
真夜中に訪れる男性とそれを静かに受け入れる女性の、淡々とした日常と最後の日の惨状の音の記録の断片が、毎年毎年、何度も何度も繰り返し再生される部屋…それってなんだか悲しいですよね」
そう言ってエリカさんはこの話を終えたのでした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
怪異体験談受付け窓口 九十日目

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