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最合傘(もやいがさ)

これはとある居酒屋の常連客Aさんが、酔うとたびたび吹聴していた彼の若い頃の話です。

営業職だったAさんは、11月も終わろうとするその日、かなり落ち込んでいました。
その月は営業成績成績が上がらず、そればかりか以前に契約完了したはずの案件が、ここにきて急に見直しになったりと、気の滅入るようなことばかり続いていました。

私生活でも、学生の頃から付き合ってきた彼女と、ささいなことで喧嘩別れをしたばかりでした。
夜も更けた帰りのバスの中、過ぎ去る街の灯りを憂鬱な気持ちで眺めていたAさんでしたが、その気持ちに追い打ちをかけるように、雨粒が車窓を叩きはじめました。

あいにく傘は持っておらず、スーツは新調したばかりです。
「つくずく俺は運がないんだな」と諦めに似た気持ちでAさんはバスを降りました。

幸い彼が降りた停留所にはベンチと小屋根があったので、すぐにずぶ濡れになることはありませんでしたが、ここでいつまでも雨宿りをするわけにもいきません。

自宅までは歩いて15分ほどの距離でしたが、これは走って帰るしかないかなと覚悟を決めたとき、ベンチの後ろに置かれている一本の傘が目に入りました。

誰かが置き忘れたものなのでしょうか。
女性用の赤い長傘が、ベンチの背もたれの後ろに、無造作に立てかけてあったのでした。

Aさんは少し躊躇しましたが、通る人とてまばらな雨の夜道でのこと、見とがめる人はあるまいと、その傘を借りて帰ることにしたそうです。

時雨とはいえ雨脚は街灯の明かりにしろくけむり、その中にぽつんと開いた赤い傘の下、Aさんはひとり鬱々として歩を進めていたのでした。

しばらく歩き続けていたAさんでしたが、ふと傘の柄を持つ右手に違和感をおぼえました。
街灯の明りの下に足を止めて、右手を見てみると、傘を持つAさんの手に添えるように、薄くもう一つの手が見えています。

それは女性の右手でした。
Aさんは驚きましたが、怖くはなかったのだそうです。
なぜなら、その薄く見える右手の中指に、見覚えのある指輪が見えたからでした。

指輪はAさんが、別れた彼女に贈ったものでした。
そのことに気づくと同時に、嗅ぎ慣れた彼女の髪の香りがふっとAさんの鼻孔をくすぐりました。

その時Aさんは、目には見えないけれど、自分の右側には彼女という温かなぬくもりを感じさせる存在が、確かに寄り添ってくれているのだと実感したのだそうです。

ささいなことで別れたけれど、落ち込んでいる自分に今でもこうして寄り添っていてくれるのかと思うと、Aさんの心の中には、久々に嬉しい気持ちが湧いてきました。

それからの帰り道、Aさんは誰もいない右側に傘をさしかけたまま、相合い傘のようにして帰宅したのでした。
それはAさんにとって久しぶりに味わう幸福なひとときでした。

そして、帰宅するとすぐに彼女に電話をかけたのでした。
「その彼女がね、今の嫁さんなんだ。
生霊だったのかなんなのかよくわからないけど、彼女には今でもほんとに感謝してるんだ」
そう言ってAさんはこののろけ話を終わるのでした。

そんなAさんの姿を見て、居酒屋のアルバイトのK子ちゃんは言うのです。
「ワタシ、Aさんてちょっと苦手なんですよね。
いえ、Aさん本人じゃなくて、いつも後ろについている女の人が、肩越しにワタシのことを睨みつけてくるんですよ。
あれはAさんがいう奥さんの生霊なんですかねえ。
ワタシ、別にAさんのことなんとも思ってないのに、勝手にヤキモチ焼かないでほしいんですよね…」

そんなことを知ってか知らずか、Aさんは奥さんの生霊に見張られながら、ふたたび上機嫌でのろけ話をはじめるのでした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
恐怖体験受付け窓口 特別回「ご投稿限定配信」
2022.12.5

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