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月下美人

今回は久しぶりに祖父の多吉から聞いた昔話です。

祖父が20代の頃と言いますから、昭和のはじめ頃のこと。
とある春の日、多吉青年は住んでいた集落から、近くの大きな町まで本を買いに出かけたのだそうです。

町は小さな集落をいくつか抜けた先にありました。
バスは通っていましたが、1時間に1便程度の運行でしたので、自転車で行くことにしました。

父親から大きな荷台のついた、黒くて頑丈さだけが取り柄のような業務用の自転車を借りて、家を出たのは午後2時過ぎ。
目当ての本を買い、町の中をブラブラと散策して、家路についた頃にはすっかり暗くなっていたそうです。
町はずれに近づくほど、往来の賑わいは少なくなり、町を出る頃には人通りさえもほとんどなくなってしまいました。

ここから家までは、田畑や小さな集落の間を抜ける一本道です。
街灯はなく舗装もされていない田舎道でしたが、その夜はちょうど満月で、薄青い月の光が周囲を照らしていました。
多吉青年は欲しかった本を買えたことで、上機嫌で鼻歌を歌いながらゆっくりと自転車を漕いでいました。

田んぼと畑の中に続く真っ直ぐな道を、自転車のライトと月明かりをたよりに進んでいると、前方の道の脇になにやらぼんやりと白っぽいものが動いています。

夜目を透かして見ると、それは女の人のようでした。
左足を少し引きずるようにして歩いています。
人通りのないこんな田舎道で、しかも女性の独り歩きとは、さすがに少しうす気味悪く思い、多吉青年は急いでその横を走り抜けようとしました。

スピードを上げた自転車が女性の横を通り過ぎようとした時、「もし…」と呼び止める声が聞こえました。
多吉青年は一瞬ビクッと体をこわばらせて〈これはまずい。早くこの場から逃げなければ…〉と思ったのですが、何故か体は心とはうらはらに自転車を急停車させていたのだそうです。

多吉青年が恐る恐る振り向くと、
「あの…私(わたくし)、先ほど道のくぼみに足をとられて、どうやら少し挫(くじ)いてしまったようですの。
すみませんが◯◯まで後ろに乗せていただくことはできませんでしょうか?」
女性はそう声をかけてきました。

彼女は、歳の頃は多吉青年よりも少し上の20代後半から30代はじめくらい。
白っぽい梅柄の京小紋の着物に臙脂色の半幅帯、髪は当時流行っていた西洋上げ巻に結い上げた細面の美人でした。
胸には薄色の風呂敷包みを抱えています。

服装やその喋り方から、近在の農家の女性ではないことは一目でわかりました。
どこかの地主か商家の若奥さんといった風情の、多吉青年が話をする機会など、まずありえない美しい女性だったのです。

突然の美人からの頼みに多吉青年は戸惑いました。
女性が言った◯◯は帰り道の途中にある集落ですが、〈はて、あのあたりにこんなきれいな若奥さんはおったじゃろうか?〉と疑問に思ったのです。

しかし、すがるような眼差しで、彼を見つめてくる月下の美女を見ていると、そんな疑問や最初に感じた薄気味悪さなどは消し飛んでしまい、なんとか難儀をしているこの女性を助けてやらなければという気持ちになったのでした。

幸い人目のない夜道です。
変な噂のたつおそれがなかったこともあって、彼は自転車の後ろに乗せて行くことを承諾したのだそうです。

「こんなオンボロ自転車の荷台じゃぁ、乗り心地が悪りーじゃろうが、しばらく我慢してつかーさいよぉ」と彼が言うと、女性は「だいじょうぶです」と小声で答えて、抱えていた風呂敷包みを荷台に広げるようにして置き、そこに横座りに腰をおろして、片腕を多吉青年の腰に回してきたのでした。

思いがけない女性の行動と、背後から匂い立ってくる白檀のような甘い香りにどぎまぎしながら、多吉青年は自転車を漕ぎはじめました。
変速機などない時代の、無骨な商用自転車の重さに加えて、背後の女性の、その華奢な体型に似合わないような重みも加わって、ペダルは思いのほか重く、漕ぐのに難渋しましたが、そのことを女性に気取られまいと、多吉青年は懸命に自転車漕いだのでした。

今までに経験したことのない状況に、内心胸踊らせていた多吉青年は、自転車を走らせながら彼女に色々と話しかけたのだそうです。
女性は、最近このあたりに嫁いできたばかりだということや、今日は洗い張りに出していた着物を受け取りに町まで行った帰りであることなどをぽつりぽつりと答えていましたが、やがて「ええ」とか「いいえ」などという短い受け答えになり、終いにはなにを聞いても無言のままになってしまいました。

気すまりな雰囲気のまま、しばらく無言で自転車を漕いでいると、雲が出てきたのか、夜道を照らしていた月明かりがしだいに薄れはじめ、ついにあたりはおぼろに暗い春の闇に包まれてしまったのでした。
その中を、懸命に漕いでいる自転車のライトだけが道の行く手をわずかに照らしています。

多吉青年は懸命にペダルを踏み続けますが、漕ぐほどにペダルは重く、荷台の女性も最初よりもずいぶん重たくなっているように感じます。
そして、最初はあれほど馥郁(ふくいく)と匂い立っていた背後の白檀のような香りも、いつしか鼻を突く生臭い臭いに変わっていました。

それでも多吉青年は、なにかに取り憑かれたかのように自転車を漕ぐことをやめませんでした。
ヨロヨロとしたハンドルさばきで、小さく蛇行しながらなんとか前に進んでいましたが、道の轍(わだち)に車輪をとられ、ついに大きくよろけて、左足を地面につく形で自転車は斜めにかしいで止まってしまいました。

〈しまった!〉と多吉青年が思った瞬間、背後の荷台からドスンと重い物が道に落ちる音がしました。
それは明らかに人ではなく、もっと重くて硬い塊が落ちた音でした。

驚いて音のした方を振り返ると、乗せていたはずの女性の姿はなく、道の上にはなにやら黒い長方形の物体が転がっているのがなんとなく見てとれます。
多吉青年がよく見ようと目を凝らしていると、折しも雲間を抜けた月の光があたりをうす青く照らし出しました。

道の上に転がっていたもの…
それは墓石の、戒名などが彫られている竿石の部分のようでした。
石は、かなり古いもののようで、全体に苔むして風化していて、文字などは夜目では確認できません。

月明かりに照らされたその黒い墓石を見て、多吉青年は魔法がとけたように一気に恐ろしくなって、大慌てで自転車を飛ばして家まで逃げ帰ったそうです。

翌朝、石を落としたであろうあたりに確認しに行ったそうですが、
誰かが道の脇に除けたような形跡もないのに、石は跡形もなく消えていました。

「ありゃぁ妖怪か幽霊か、タヌキに化かされたんかはわからんけど、分不相応な美人の甘め~言葉にゃあ、せいぜい気ぃつけんとおえんのんぞ」
祖父は晩酌の熱燗をすすりながら、まだ小学生だった私にそう懇々(こんこんと)と言って聞かせるのでした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
恐怖体験受付け窓口 百二日目
2024.1.28

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