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梅花麗筆(ばいかれいひつ)

これは、とある骨董店の娘さん(仮にレイコさんとしておきます)から聞いた、古い手紙にまつわるちょっと謎めいたお話です。

一口に骨董店と言っても、店主の好みや得意分野があり、扱っている品もそれぞれの店でかなり異なります。
レイコさんの父親は、古い漆器や家具、古民具などの古い木製品を中心に商いをしていました。
彼女は大学生の頃、父親が仕入れてきたそれらの品の、検品や清掃を手伝っていたそうです。

その日は金沢から仕入れて来たという明治時代の手許箪笥(てもとだんす)の点検をしていました。
手許箪笥はその名のとおり、身近に置いて、身の回りの品や貴重品を入れておく小型の箪笥です。

仕入れて来た箪笥は、高さ・幅ともに60センチほど、大小6つの抽斗(ひきだし)があり、その内の2つは昔ながらの鉄金具の錠(じょう)がついています。

ひとつの錠付きの抽斗の中には、櫛や笄(こうがい)、文房具などのこまごまとした日用雑貨とともに、10数枚の古い写真が入ったままになっていました。

セピア色になった集合写真や、どこかの村のお祭りの様子、昭和初期を感じさせる老夫婦の旅行の記念写真などのほかに、数枚のポートレートがありました。
どれも写真館の名前が入った分厚い台紙に貼られています。

そんな写真を1枚ずつ見ていたレイコさんの目にとまったのは、ポートレートのなかの、一枚の若い女性の肖像でした。
丸顔のいかにも田舎のお嬢さんといった素朴な感じの女性です。

彼女は斜め前を向いて、少し緊張した面持ちで写っています。
長い髪を後ろで1本の三つ編みにして、根元の方へ折り返してリボンで結ぶマガレイトいう髪型に、白地に花柄の着物を着て、精一杯おしゃれをしていることがわかります。

裏を見ると
「谷内文梅(あやめ) 昭和十八年三月八日没 享年二十一」という薄いペン書きの文字がありました。
レイコさんは、自分と同い年くらいのこの女性の肖像写真から、しばらく目が離せなかったそうです。

錠付きのもうひとつの抽斗は鍵がかかったままの状態でした。
こうした古い錠前の解錠は父親が得意なのですが、その日はあいにく出かけていました。

どうしたものかと考えましたが、先ほどの写真といっしょに入っていた雑貨の中に、古い鍵がひとつあったのを思い出しました。
ためしに鍵穴に差し込んでみると、簡単にとはいきませんでしたが、なんとか開けることができました。

抽斗(ひきだし)には、蓋に紅白の梅の花の蒔絵がほどこされた黒塗りの文箱(ふばこ)がひとつありました。
そしてその中には、30通をこえる葉書や封書などが入っていたのです。

宛名はすべて「谷内文梅様」、差出人は「柴田兵吉」となっています。
レイコさんの目を引いたのは、その筆跡の見事さでした。

書道にはあまり詳しくない彼女の目から見ても、凛々しくて男らしい、勢いを感じさせる、達筆と言ってよい筆致でした。

若くして亡くなった女性に宛てた、男性からの凛々しい筆跡の手紙…。
若かったレイコさんは、そこに淡いラヴ・ロマンスを想像して、この文箱を自室に持ち帰って、手紙をゆっくりと読んでみることにしたそうです。

内心すこしワクワクしながら読み進めてみると、期待したような色恋の話題はさほどなく、身の回りの出来事や贈り物のお礼など、身辺報告がほとんどでした。

しかし読んでいくと、この柴田兵吉という男性が、東京の大学生で、谷内文梅との仲は、互いの両親にはまだ秘密にしているらしいことがわかりました。

そういえば手紙の宛先はどれも「吉田政恵様 気付」となっており、その点では秘めた恋模様がうかがえるようで、あれこれと想像してちょっぴりドキドキしたそうです。

また、手紙の束の中には、文梅さんが書き損じたと思われる葉書も数枚混じっていました。
そして、その筆跡は兵吉さんに負けず劣らずの見事なものだったのです。

まさに「水茎の跡うるわしく」という表現がぴったりの流麗な筆さばきで、失礼ながらあの肖像写真の女性のイメージとはだいぶ異なる印象のものでした。

手紙の内容をざっと確認し終えて、元に戻そうと文箱を持ち上げたところ、中でカタリと音がしました。
振ってみるとカタカタとまだ何かあるようです。

どうやら文箱は二重底になっているらしいと気づいたレイコさんは、しばらく悪戦苦闘した末に、二重底の中身を確認することができました。
中には封書と葉書がそれぞれ1通づつありました。
宛名と差出人はほかのものとかわりありません。

葉書には、今度の春にそちらに行くので、一度会ってほしいと書かれてあり、封書の方は、デートの当日は、二人で梅園などをめぐり、とても楽しい時間を過ごせたことなどが、連綿と書き綴ってありました。

そして、封書には1枚の写真も同封されていました。
満開の梅林の前で、少し距離をとって並ぶ若い男女の写真です。
裏には兵吉さんの筆跡で
「昭和十八年三月二十一日 兼六園にて 兵吉 文梅」の書き込みがあります。

「え?!」とレイコさんは思いました。
文梅さんは3月8日に亡くなっているのでは…?
改めて写真を見返すと、そこに写っている女性はあのポートレートの谷内文梅さんではありませんでした。

セピア色の画面の中に小さく写っている女性は、髪型こそ似ていますが、瓜ざね顔で垢抜けた印象の、まさにあの流麗な筆跡にふさわしいような人でした。

驚いてすべての手紙の消印を確認すると、文梅さんが亡くなった3月8日以降のものが、4月5日消印のこの封書を含めて、11月12日付けの葉書まで、毎月1通づつ、計8通ありました。

5月以降の6通はこれまでと同じような日常報告の葉書でしたが、最後の1通には、学徒出陣の招集でまもなく出征することが淡々と記してあります。
そのほかにあと2通、消印のない軍事郵便があり、これらはどちらも慰問品のお礼など、当たり障りのない文面でした。

こうしてみると3月8日以降も、文梅さん側からも返信していたことは明らかです。
梅園の写真の女性は、なぜ文梅さんの名でその死後も文通を続けて、実際にデートまでしたのでしょうか?

そもそも彼女は何者なのでしょう?
手紙の宛先にあった「吉田政恵」とも考えられますが、では、成りすました目的はなんだったのでしょうか?

考えれば考えるほど新たな疑問が湧いてきます。、
レイコさんは数日間、あれこれと推理してみましたが、これといった合理的な解釈は見い出せませんでした。

父親にも相談してみましたが、何をバカなことに夢中になっているのかと
頭ごなしに怒鳴られただけでした。

やがて、文梅さんのポートレートを含む古(ふる)写真と達筆の手紙の束は、それぞれ別のコレクターに引き取られていきました。
蒔絵の文箱も店の常連客が買っていき、この件は彼女の中でだけ、
今も謎のままくすぶり続けているのだと…
そんなことをレイコさんは語ってくれたのでした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
恐怖体験受付け窓口 人怖報告回 十一夜目
2022.9.25

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