羽化
「はじめは缶コーヒーやったんです…」
男性はいきなり、そう話しはじめました。
5年ほど前、大学病院の眼科の待合室でのことです。
コロナ流行の前で、広い待合室は廊下にまで人があふれていました。
ざわつく待合室の長椅子で、私は各種検査を終えて診察の順番を待っていたのです。
となりに座っていた老人と付き添いの娘さんらしき二人が席を立ち、そのあとに初老の男性と老婦人が腰をおろしました。
男性は、ねずみ色のポロシャツに濃い同系色のズボン、白髪交じりの短髪で黒縁メガネををかけた、細身の一見してどこにでもいそうな地味な感じの人です。
対する老婦人は品の良い服装で、見るからに優しそうな感じの人でした。
席に腰をおろすやいなや、男性は老婦人に向けて喋りはじめたのです。
「ですから、はじめは缶コーヒーやったんです。自動販売機の…」
「そう…」
老婦人は少し当惑したような表情を浮かべながらも、小さく頷きながら聞いています。
男性はそんな彼女にはおかまいなしに、まるで誰かに話してしまわないと、自分ひとりでは抱えきれないといったような、せっぱつまった調子で話しを続けるのでした。
「あの朝もいっつものように、通勤途中の自動販売機で私、缶コーヒーを買ったんです。
いっつも買ってる銘柄のホットの缶コーヒー…。
ゴトンと音がして、私、ほとんど無意識に、取り出し口に手をつっこんで取り出したんですよ。
そうしたらね…、白いんですよ。
何の印刷もされてない真っ白な缶…、いやちがうな…真っ白じゃなくて…、うっすらと黄緑色がかったような白い缶が出てきたんです。
しかも、ホットを買ったはずなのに熱くない。
妙に生温ったかい感じやったんです。
びっくりしてその缶を見つめたまんま、私、その場に立ちつくしてしもうて…。
そうしてると、手の中の缶のその生白いところに、だんだんと色が付きはじめて、1分とせんうちに、いっつもどおりの銘柄の缶コーヒーになったんです。
私その時、直感的にあれを連想したんです。
ほら、あれです…蝉の羽化。
羽化したての蝉のからだ、白いでしょう?。
それが、時間がたつにつれ、だんだんと色がついてくる…、ちょうどあんな感じやったんですよ」
男性は、そこまでいっきに言って、一息つくようにあたりを見回します。
となりで聞き耳を立てている私の顔をちらりと見ましたが、そのまま再び老婦人の方へと顔を向けました。
「それでね、その時からちょくちょく見るようになったんですよ。
それもね、決まって朝の通勤時間の頃に…。
最初は道ばたの花壇の花や郵便ポスト、停めてある車なんかが白く見えて、しばらく見てるとだんだん色が付いて、というか色が戻ってきてたんです」
男性は重大な秘密を打ち明けるように、少し前かがみになって老婦人に顔を寄せます。
「それが最近じゃぁ、道の角を曲がって出くわした散歩途中の犬だったり、近所のじいさんなんかも白く見えはじめて…。
それで昨日の朝は、ついに女房や子供までもしばらくの間なまっ白(ちろ)いまんまやったんですよ。
で、こりゃぁだめじゃ思うてね、近所の眼科に行ったんですけど、ようわからん言うもんで、紹介状を書いてもろうて、今日は大学病院に来たんです。
これ、なんの病気なんでしょうねぇ?」
訴えるような調子でそう聞かれて、老婦人は「さあ…」と小声で答えるのが精一杯のようでした。
そして答えながら、男性の肩越しに私の方へ助けを求めるような視線を投げかけてくるのでした。
その視線に気づいたのか、男性はくるりとこちらに向き直り「なんの病気なんでしょうねぇ?」と問いかけてきたのです。
「何なんでしょうねぇ」と私があやふやな言葉を返していると、運良く待合室のモニター画面に私の診察番号が表示されました。
私が急いで席を立ち、診察室へと向かったのは言うまでもありません。
彼が来るべきは眼科ではなかったのではないか…型通りの診察を受けつつ、私は漠然とそんなことを考えていました。
目の前の若く優秀そうな医師が、このあとあの男性の訴えを聞いて、はたしてどのような診断を下すのだろう?…そう思いながら私は診察室をあとにしました。
診察室を出ると、あの男性はまだ元の長椅子に座ったままでしたが、混み合う待合室の中で、その両脇だけがぽっかりとあいていたのが、ことさら際立って見えていたのでした。
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