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団欒

これは高原さん(仮名)という、30代の男性から聞いたお話です。

2014年、高原さんが26歳のときのことです。
そのとき彼は、東京のとある会社に就職して4年目になろうとしていました。
3月7日、金曜日の夜だというのに、高原さんは会社の取引先の接待のために酒宴の場にいました。

若手社員として、色々と気を使った飲み会も無事に乗り切り、取引先や上司をタクシーで送り出したあとのことです。
接待での緊張と憂さを晴らすために、居酒屋で改めて軽く飲み直して、ひとり家路についたのは23時を過ぎたころでした。

居酒屋を出て、大通りから一本入った裏道を、少し酔った足取りで駅へと向かっていたときのことです。
人通りも車通りも途絶えた、街灯だけがぽつぽつと点る裏道の、行く手20メートルほど先。
左側のビルとビルの間から、一匹の白い猫が歩道へと軽い足取りで駆け出してきました。
そして、それを追いかけて、一人の若い女性が小走りに出てきたのが見えました。

栗色のショートカットの髪に、ピンクのジャージの上下を着たその若い女性は、猫に追いつくとひょいっと抱き上げて、胸元に愛しそうに抱きかかえて、出てきたビルのあいだへと戻って行きました。

高原さんは〈えっ?〉と一瞬立ち止まりました。
女性の姿に見覚えがあるように思ったのです。
それは彼の五つ年
下の妹にそっくりでした。
〈まさかなぁ〉と思いながら、彼は急いでその女性が出てきたあたりに行ってみたのだそうです。

そこで高原さんは、再び〈えっ?〉と驚かずにはいられませんでした。
ついさっき猫と女性が出てきたとおぼしきあたり…、そこはビルとビルの間の20センチほどの隙間だったからです。
猫はともかく、人が通り抜けられるような空間ではありません。

高原さんは、見間違いではないかと、そのあたりを見回しましたが、たしかに目の前のビルの隙間から出てきたとしか考えられない状況でした。
彼は酔っていたこともあり、本当に人が通り抜けれないか確認しようと、その隙間に近づいて中を覗いてみたのだそうです。

しかし、覗き込んだその真っ暗な隙間からは、まだ冷たい早春の夜風が吹き抜けてくるだけで、人が身体を横向きにしても、とうてい通り抜けられるようなものではありませんでした。
〈酔ってるから見間違えたのかなぁ〉と自分を納得させて、高原さんがその場を離れようとしたときです。

隙間から吹き抜けてくる風に乗って、実に美味しそうな匂いが、彼の鼻孔をくすぐりました。
どこか懐かしいようなその匂いに誘われるままに、高原さんはいま一度ビルの隙間を覗いてみたそうです。

そこは先程と同様の暗く細長い空間でしたが、美味しそうな匂いを乗せた風は、確かにそこから吹き抜けてきます。
その匂いの元を確かめようと、さらに覗き込むと、隙間の暗闇の先に、ポッと小さな灯りがひとつ点ったのが見えました。

その仄白い灯りは、見ているうちに急速に大きくなり、覗き込んでいる高原さんの目の前、1メートル程先に直径5,60センチほどの丸い光の玉として浮かんでいたのでした。

そして、その光の玉の中には、ひとつのテーブルをかこむ5人の人の姿がありました。
老夫婦と中年夫婦、そして先程のピンクのジャージ姿の女性もいて、その足元には白猫の姿も見えます。
テーブルの上には、大きな土鍋が置かれ、温かそうな湯気を上げています。

目の前の光の玉の中の、このどこにでもあるような一家団欒の食卓風景を高原さんは声もなく見つめていました。
なぜならそれは、間違いなく高原さんの故郷の家の、家族たちの姿だったからです。

くいいるようにしばらく見つめていた高原さんでしたが、その懐かしい光景は、なにかに押し流されるようにふいに消えてしまいました。
気づけば彼は、ビルとビルの間の狭い隙間に、顔を押し付けるようにして、がっくりと両膝をついた状態で座り込んでいました。
そして、その両頬にはとめどなく涙が流れていたのです。
「はたから見ればただの酔っ払いのように見えたでしょうね」
高原さんはやや自嘲気味にそう言いました。

しかし、彼が見たのは、宮城県石巻市にあった実家の、もう戻ることのない一家団欒の風景だったのです。
2011年3月11日に彼の実家は津波に流されました。
たまたま外出していた妹は助かりましたが、祖父母と両親は長く行方不明のままでした。
震災から1年以上たったころに、ようやく全員の葬儀をすませたのだということです。

「三回忌も近いあの夜、だれがあんな幻を見せたのかはわかりませんが、あれで俺ようやく決心がついたんですよ」と高原さんは言います。
「2014年当時はまだ独身でしたけれど、将来結婚して家庭を持ったときのことを考えると、もう二度と、なにげない日常の生活や団欒を失いたくないと思ったんです。
ちょうどそのとき勤めていた会社にも少し嫌気がさしてましたしね。
心機一転、できるなら穏やかな土地でやり直そうと思って…」

それで彼は東京の会社を辞めて、自然災害が少ないと言われている岡山へと移り住んできたのでした。
今では結婚して子供も生まれ、妹も結婚して岡山県内に住んでいるそうです。
今は毎日の穏やかな日常を、宝物のように思って暮らしているのだと言って、少し寂しげな微笑みを浮かべながら、高原さんは静かにこの話を終えたのでした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
恐怖体験受付け窓口 百七日目
2024.3.9

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