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【ショートショート】譲るべきもの

コーヒーの香りがしなかった。

ダイニングテーブルで妻と向かい合っている。目の前のコーヒーより妻が飲んでいる紅茶の方に目が行ってしまう。そちらの匂いだけが彼の鼻孔に流れ込んでくるようだ。

「どうするの?」

能面のような顔で妻が言った。

「・・・・・・」

「処分しないなら、私が出て行くから」

マッチングアプリで知り合って2ヶ月。いわゆるスピード婚だったが、彼はどうしても結婚したかった。ルックスが完全に彼好みだったのだ。

貯金をはたいて頭金を準備し、彼女が新居に欲しがった分譲マンションを購入した。毎月の生活はローンの返済でぎりぎりだが、そんなことは言っていられなかった。

結婚生活が始まってから何日もたたないある日。突然、妻が牙をむいた。

彼が自室に集めているアイドルグッズ、CD、映像メディアをすべて処分しろと言ってきたのだ。処分しないなら家を出て行くと騒いだ。

それは彼が応援していた女性アイドルグループのものだった。この数年間、苦しい時、つらい時はいつも彼女たちの笑顔と歌声に励まされてきた。見ているだけで自然と笑顔になってくるのだ。

数え切れないほどライブに通った。時には地方まで遠征もした。それはかけがえのない思い出となった。

ファン同士のつながりにより、老若男女の友人が多数できた。同じ物が好きという間柄は学生時代の友人や会社の同僚とは比べものにならない深さとなり、彼にとってかけがえのない財産となった。

そんなすべてを妻は今すぐ捨てろといってきたのだ。当然ながら、短い交際時代に彼は何度も彼女にアイドルグループの話をしたが、関心は示さないものの特に否定的な反応もなかった。それをなぜ今になって。

「いい歳して恥ずかしいわ。私のお友だちを家に呼べないじゃない。自分の旦那がアイドルおたくだなんて絶対知られたくないから!」

彼は目に涙をためて責め立てる彼女を呆然と見ていた。どうやら交渉不能のようだ。悔しいことに泣いている顔が美しいと思ってしまった。

気がつくと、彼はグッズやCDなどをすべてまとめ、中古品の買い取りショップに持ち込んでいた。中には貴重な品もあったのだが、二束三文で買いたたかれた。店員の電卓に表示された、明らかに安すぎる査定額に彼は無言でうなずいた。

つい先日の結婚披露宴。出席者たちの驚愕と羨望の反応が何度も思い出される。それほど彼女の美貌は衝撃的だったのだ。それが結婚直後に家庭崩壊などありえない。親族、同僚、友人に顔向けできないではないか。

そう考えてグッズを売った彼だが、店から売却の代金を受け取った瞬間、防ぎようのない後悔の念が押し寄せててきた。

俺は裏切ったのだ。つらい時、苦しい時に支えてくれたアイドルグループを。ワクワクさせてくれて、笑わせてくれて、思い出と友だちをいっぱい作ってくれた彼女たちを。

捨てさせられたのはグッズだけではなかった。このアイドルグループから完全に卒業しろというのだ。ライブにも二度と行くな、ファン仲間とも縁を切れと。

仲間たちの笑顔が思い出される。時間を忘れて語り合った彼らともう会えないのか。そのうち何人かは結婚式二次会にも来てくれたのに。

そう思うと、受け取った現金が急激に汚らわしいものに思えてきた。とても財布へしまう気になれない。彼はズボンのポケットに札とコインをねじこむと、金の使い先を探して街をさまよった。

ようやく見つけた居酒屋のカウンターに座り込むと、彼は浴びるように酒を飲み、馬鹿みたいに頼んだ大量のつまみを口に放り込んだ。

誰かと話をしたかったが、この状況では妻はもちろんのこと、縁を切らないといけないファン仲間とも話せるはずがなかった。彼はスマホを取り出すと、SNSでグッズを売らざるを得なかった件を投稿した。現在のつらい気持ちも。

これが予想外に反響を呼び、瞬く間に返信が山ほどきた。よくやった、それでこそ大人の判断だと彼を賞賛するものもあったが、大部分が自分の価値観を夫に強制する妻とそれに屈した彼へのごうごうたる非難だった。

わかっている、わかっているよとスマホを見ながら彼はつぶやいた。目から涙があふれてくる。自分が最低なことは俺が一番よく知っている、と彼は思った。アイドルを裏切り、友だちを裏切っても、俺はあの女と暮らしたいのだ。彼はカウンターに突っ伏して泣き出した。

店の会計を済ませても、まだポケットに多少の札とコインが残っていた。彼はレジ横の募金箱に全額を押し込み、ふらふらしながら店を出た。

自宅に帰ると妻が満面の笑顔で出迎えた。

「高く売れた?」

「まあまあだね」

彼はやっと答えると、自室に入った。当たり前だが、もう大好きなあのグループのグッズもポスターも円盤も何もない。そこはがらんとした殺風景な空間だった。リビングから妻の声がした。

「ご飯は?」

「食べてきた」

「じゃあお茶をいれるわね」

久々に聞いた妻の上機嫌な声だった。

彼がリビングに入ると、テーブルには二人分の紅茶が置かれていた。いつもは妻が紅茶、彼がコーヒーなのだが。

「ねえ」

「何?」

「もうコーヒーはやめない?あなたが好きだから今まで言わなかったけど、私あの匂いが駄目なのよ。健康にもよくないし」

彼は無言で立ち上がると玄関へ向かった。

「どこ行くの」

妻の声には応えず、彼は外に出た。

しばらくして帰宅した彼は手に大きなビニール袋を抱えていた。

「何それ?」

彼は無言で袋をテーブルに置き、中身を取り出して並べ始めた。それはさっき売ったアイドルグッズのすべてだった。

深夜営業の中古品販売店から買い戻してきたのだ。彼が売った時の数倍の値段だった。

「これが初めてのライブの時のBlu-ray。俺もちょっと映っているんだぜ。あと、こっちは一番好きな曲が入っているCD…」

あっけにとられる妻にはかまわず、彼はグッズを一品ずつこれが何だと説明し続けた。

「ちょっと、何やってんのよ!」

ようやく妻が叫ぶと、彼は説明をやめ無表情に彼女を見た。

「ここは俺の家だ。文句があるなら出て行け。今すぐにだ」

                               (完)













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