【小説】読書中はお静かに 第一話 本を捨てる(part 1)
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青いビニールの紐で括られたハードカバーの一冊の本。紛れもなく『捨』てられているその本を発見したとき、真銅伊吹はまず呆然とした。次いで結露に見舞われたようにぼやけていた頭の中が熱によって一気に冴えていく。その熱は身体の内側から立ち上ってきていた。
その本は『無罪の烙印』という推理小説だった。真銅自身はほとんど立ち寄らない大型書店で、親友とともに探し回ったことが記憶に新しい。
見覚えのある本が、偶然目の前で捨てられている。そのように考えて、安心しようとしたのもつかの間、衝撃が走った。証拠がすぐそばにあったのだ。ゆえに真銅は確信する。その『無罪の烙印』は、親友が渡した本に間違いない。
「許せない」
真銅は歯噛みする。桑水流周。親友から本を受け取った男。元よりあまり良くなかった印象がさらに悪くなっていく。許してはおけない。
折良く合図が掛かった。銅は本へと接近し、手を伸ばす。親友、阿倉昴を悲しませないために。
二月一七日、日曜日の朝。この出来事が、二日後に起こる事件の発端だった。
1-2
お湯を注いだティーカップに、ダージリンが抽出されていく。しみ出していく紅色を鶫巣彼方は見下ろしていた。
二月一八日、月曜日の夕方。まだあと四日も平日が続く。有象無象のクラスメイトと一緒に過ごす無為の時間を思うと気怠さが彼方を襲う。思考を飲み込まれすぎないように、彼方は意識して香りに集中した。ティーバッグとはいえ、そこらの安物とは違う深みのある香りは彼方を落ち着かせた。抽出を終えて、長机の端に座る。
文芸部室は決して広くない。長机を一つ中央に配置すれば、二つ目を配置するスペースはない。細長い小部屋である。それなのにスチール製の5段の本棚を合わせて四つも並べている。パイプ椅子ひとつ乱せば、歩行は簡単に遮られる。こうなると他者を気遣う精神が育まれそうなものだが、肝心の他者がこの部屋に入ることはめったになかった。
長方形の、入口と正反対の側。カーテン越しとはいえ最も日の当たる位置が彼方の定位置だった。背中に日を浴びる代わりに、自分の影に入った本文は決して陽光に邪魔されない。大勢の本に囲まれながら、彼方は鞄から本を取り出した。八百ページ近くある文庫本。しおりは後半に差されていた。この部屋でどこまで読み、帰宅してどれくらい読むか。できれば今日中に読み切りたい。休んでいる暇はなさそうだ。
算段をつけながら、彼方は表情を緩ませた。目標に向かって進む喜び。誰にも邪魔されない至福。彼方はこのために生きているといっても過言ではなかった。代り映えのない日常で、彼方が唯一身をゆだねられるひと時だ。
「なんでひとりで笑ってるんですか?」
不躾な声に、彼方は頓狂な声を出した。入り口に制服姿の少女が立っている。背は女子にしては高い方だ。薄っすら茶色がかった長い髪は左の耳の少し上で、赤いゴム紐に束ねられていた。
「誰だお前」
「お前って……ええと、一年五組の真銅伊吹です。ここ文芸部ですよね? 質問が」
「答えたくない。帰ってくれ」
「――あって来まし、え?」
きょとんと、真銅は真顔になった。彼方が大げさなほどの溜息をつく。
「ブックガイドを頼みたいなら図書室に行けばいいだろ。街の図書館でもいい。優秀な司書さんが答えてくれる」
「だって、ここの方が手っ取り早いからですよ。それに本を探してるわけじゃない」
真銅の言葉に、彼方は微かに眉毛を上げた。
「まあ、聞いてみようか。一年一組、鶫巣彼方だ。同学年だし、楽にしてくれ」
彼方は入り口側のパイプ椅子を指差した。真銅は椅子を引いて座る。
「話していいぞ」
彼方は手元の本に目を向けたまま言った。
「……いや、なんでまだ本読んでるの?」
「単純な会話なら読書しながらでもできる。文字は目で読む。君の質問は耳で聞き、口で答える。質問は終わりか?」
「終わりなわけないでしょ!」
ドンと机が叩かれる。カップの中身が溢れそうになり、彼方はまた頓狂な声を発した。
「ふざけてないでちゃんと聞いてよ」
「聞こえてるよ。まったくすぐ手をあげるなんて、暴力的な」
「何か言った?」
「では、質問をどうぞ」
彼方は読みかけの文庫本をやむなく閉じた。読み切る見込みが遠ざかる。真銅はにこりと笑みを浮かべ、すぐに真剣な顔になる。表情がころころと変わる人だった。
「小説を読むのにどれくらい時間が掛かるのか知りたいの。厚さは、ちょうどこれくらい」
真銅は鞄から歴史の取り出した。同学年の彼方も使っていた。ページ数は四五〇から五〇〇、と目算する。
「ハンケイは?」
「四角だよ?」
「半径じゃない、判型。あー、大きさの種類。その教科書はA5判で、小説の単行本より少し大きめだ。そのほかにあるのは、例えばB6。文庫本、これな」
一向に読み進められない持ち込み本を彼方は手に持つ。真銅は感心したように頷いた。
「じゃあ多分、単行本。あ、表紙が固かったよ」
「ハードカバーで五〇〇程度。まあまあの厚さだな」
彼方は立ち上がると、本棚をじっくり眺め回した。
「ここの本の並びは判型がバラバラなんだね」
覚えたての「判型」を使う真銅に、彼方はちらりと目をやった。
「そうだな。文庫本の隣にハードカバーや雑誌、図録なんかも詰め込まれている。あるのは大まかなジャンル分けだけだ。傾向もよくわからない。入れた人は、卒業して、入れたことすら忘れているんだろうな」
「ジャンル別の本棚って多いの?」
「どうだかな。本棚にある程度こだわりがある奴なら、みんな自分なりのルールで本を並べる。俺が知っている奴で珍しいのだと、読み終えた本に書き込みを――これだ」
話を遮って、背表紙に指がかかる。抜き取られたハードカバーの本は戦記物らしく、鎧武者の姿が墨絵で描かれていた。
「厚さと判型は近いと思う。文体はどうだ?」
「文体?」
「文章の、質感とでも言おうか。例えばこの小説は描写がすこぶる緻密で、作者の歴史考証の厚みがうかがえる」
話しながら、彼方は本を開いて見せた。
「読者はその時代の知識をもたらされながら、物語の世界にのめり込んでいく。裏を返せばそれだけ詳細な説明が多くなる」
みしりと音が聞こえてきそうなほど詰め込まれた文字列に、真銅はわかりやすく顔をしかめた。
「私、これ無理だわ。一か月かかっても読める気がしない。読み通せる人っているの?」
「誰でもできる。慣れればな」
信じられないと言いたげに真銅は彼方を見上げ、その勢いに彼方は逆に身を引いた。
「慣れたら、一晩でも読めるもの?」
真銅の問いに、彼方は天井を見上げて思案する。
「徹夜しても良ければ」
「そっか、ちょっと厳しいな。文体はどうかなあ」
真銅は考え込んだ。言葉はなかなか出てこない様子だった。
「なあ」
時間を置いて、彼方が呼びかける。気づいた真銅と視線が合った。
「お前はどうして他人のことでそんなに悩んでいるんだ?」
彼方はそう言って、一旦本棚に目を向けた。再び視線を真銅に戻すと、ぽかんと気の抜けた表情に出くわした。
「他人?」
「少なくとも、お前自身のことじゃない。もっと言おうか。お前が知りたがっているのは、『お前じゃない誰かが、また別の誰かにプレゼントした本が、どれくらいの時間で読み上げられるべきなのか』だ。どうしてこんな奇妙な質問をする?」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 私、そんな余計なこと言ったっけ? 必要ないことは言わなかったはず」
「表紙が固かった」
彼方は人差し指をピンと立てた。
「ページ数をやけに限定したこともそうだし、表紙が固いことを過去形で言 うってことは、対象の小説はすでに具体的にお前の頭に浮かんでいるってことになる。 ところがその割には、その小説の文体がどんなものなのか、具体的な説明は出てこなかった。 さっき見せた戦記物の小説は、はっきりいって極端な例だ。『もっと文字数は少ない』とか、知っている本のことなら言えることはいくらでもあるだろう。 それなのにいくら待ってもお前から補足の説明はなかった。ここからわかることは、お前がその小説を自分では読んだことがまったくないということだ。タイトルと表紙絵ぐらいなんじゃないかな」
「それはそうだけど」
真銅はなおも不可解そうな顔をしている。彼方はひとつ咳払いをした。
「誰かが本を読み終えるまでの時間を知りたい。この疑問を抱く理由は、二通り考えられる。『相手が読むのにあまりに時間が掛かっている』、もしくは『相手があまりにも速く読みすぎてしまった』。どうしてそんな疑問を抱くのかはともかく、いずれにしても、相手に本を与えていることに変わりはない。 考えられるのは『貸借』と『贈与』だ。そのどちらも、読んだことのない本を与えるというのは奇妙だ。 だから、その本に愛着を抱いている誰かの存在を考えた。そう考えると、どちらかといえば『相手があまりにも速く読みすぎてしまった』という問いの方がしっくりくる。 その本に愛着があるのなら、あっという間に読み終えてしまった相手に対し、『気に入らなかったのだろうか』と不安を抱いた、という妥当な筋が成り立つからな」
長い説明を終えて、彼方は一息ついた。部屋中にまだ、彼方の一方的な語りの雰囲気が残っている。呆然としていた真銅は我に帰った。
「まって、なんでプレゼントってわかったの?」
「わかってなかった。お前のわかりやすい反応を見るまでは」
「聞いて損した!」
バンと机を叩くと、ティーカップが今度こそ倒れた。中身はすでに飲み干されているが、肝が冷えた彼方はティーカップへと飛びついた。その合間に真銅が部室の扉を開く。
「すぐ手を出すクセは直した方が賢明だな。いつか人を傷つけることになる」
「知るか! 散々不安がらせておいてえらそうなこと言うな。もう二度とこんなところ来るもんか。あんたとももう会わないからね」
廊下中に響き渡る大声で真銅は怒鳴り、肩を怒らせて廊下を歩いていく。触れるものを蒸発させてしまいそうな勢いだった。
「手遅れのようだな」
軋んだ音とともに扉が閉まり、文芸部室に静寂が訪れた。時間はかなり経っているが、ないこともない。意気揚々と彼方は文庫本へ手を伸ばした。
推理小説の真似事なんて慣れていないし、当てる気もない。まして人を救うつもりも彼方には毛頭なかった。
彼が力を尽くすのは、静寂の時間をつかむためだ。
先ほど叫んだ真銅と同じく、彼方自身も、もう彼女と出会うことはないだろ うと思っていた。
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※この記事はオリジナルミステリ小説『読書中はお静かに』の無料試し読み記事です。
次回の更新は1月30日(日)を予定しています。
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