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頼まれごとや誘いを断ることで感じる罪悪感の正体 6分

頼まれたことを断ったときに感じる罪悪感の正体はなにか?
断るとどんな問題があるのか、という話です。

仕事で、忙しいときに何か頼まれたり、行きたくない飲み会に誘われたり、ありますよね、そういうの。
そして、忙しいかったり、単純に行きたくないのに、断れない・・・

断ったら悪いとか、嫌われるかもとか、気を悪くさせるんじゃないかとか、いろいろ考えてしまって、つい分かりましたと言ってしまう。

僕も経験上、分かりましたっていっちゃうの、分かります。
でもやっぱりそれは、ストレスになってしまいます。

じゃあなんで、断ったら悪いと思ってしまうのか。
細かく見えていけば、いろいろな理由があると思いますが、子供のころのなにかに原因があると思います。
僕の場合だと、親の言うことを聞けばいい子と言われ、言われたことできなかったりしなかったりしたら、怒られる。

これ、一見どこにでもあるような話ですが、条件付きの愛情というものです。これをしたらいい、これをしなかったらダメ、というふうに。

人間って、こうしなさいって強制されたら、反発したくなるもの。
でもやらないと、ダメの烙印を押されるわけです。
なんで勉強しなきゃいけないかも分からないまま、勉強しなさいって言われて、やらなかったら怒られるって、けっこう理不尽ですよね?
冷静に考えたら。

でも、親は子供にそういうふうに接ししてしまいやすい。
そうなると、親の期待に応えられなかった自分は価値がない、ダメな自分、というような刷り込みができていく。
そして、人に何か頼まれたりしたら、それをしないことはダメってことになります。真面目な人ほど、そういうふうに考えやすい。

だから、一生懸命に応えようとするけど、すごいしんどいですよね、それ。
さらに悪いことに、辛いから、結果も出づらくなります。相手が期待したような結果が。
そして、できなかった自分を責めてしまう、というふうに、最悪のループに陥る。
つまり、断ったときに感じる罪悪感は、何にも悪いことしてないのに感じてる罪悪感なわけです。
そう考えれば、断るって、無下にでなければ、悪いことではないのが分かると思います。

罪悪感を感じたくないことを優先して、頼まれごとや行きたくない誘いに、「はい」と言ってしまうのは、自己犠牲です。
報われないギバーというやつですね。

もっと言うと、自分を犠牲にして応えて、それで相応の見返りありましたか?
中にはそういうのもあったかもしれませんが、ほとんどは苦しいだけで、自分の心をすり減らしたわりには、大して感謝もされなかったのではないでしょうか?

だから、それ、やめましょう。
断ることは、何も悪くないです。無下に断るのは良くないので、最低限のマナーを持って丁寧に断る。それでいいのです。

期待に応えたいっていう気持ちも、自分のモチベーションになる範囲ならいいと思います。
でも、行き過ぎたら辛くなっちゃうので、無理なときは無理ってちゃんと断ることが大事、ということですね。。

断れない人って、断ったら相手に悪いみたいに思ったりもしますけど、
じゃあ自分は? 自分に対しては悪くない・・・?
いっぱいいっぱいなのに、行きたくないのに、それを受け入れて自分をすり減らすのは、自分に対してまったく配慮がされてないのではないかと思います。
自分が自分をないがしろにしてしまっている。

それは、何もプラスになりません。
自分を大事にしないと、物事はうまくいかない。
断るっていうのは、自分を大切にすることであり、自分への配慮であり、自分に対する思いやりです。
自分を犠牲にしてまで人の期待に応えることなんてないのです。

相手に気を使うなら、自分にも気を使いましょう。
そこでバランスをとって、ここまでだったらできるけど、これ以上は無理、というふうに、ちゃんとラインを引いて、そこを越えることは基本断る。

断らないと、自分が辛いし、相手には軽く見られるし、自分からも相手からも大事にされないという、自分イジメみたいになってしまうわけです。
断ることに罪悪感を感じるのであれば、それはそもそもの原因、そう思ってしまう原因があるはずなので、子供のころのこととか、思い出してみてください。
思い出せたら、そんなもの応えなくていいって、自分に言ってあげてください。

自分の心が健やかでいられるよう、できることはして、無理ってことはちゃんと断りましょう。
それが自分を大切にするってことだし、自分で自分を守ることにもなりますから。


みなさんに元気や癒やし、学びやある問題に対して考えるキッカケを提供し、みなさんの毎日が今よりもっと良くなるように、ジャンル問わず、従来の形に囚われず、物語を紡いでいきます。 一緒に、前に進みましょう。