いい写真の話 その1

こんにちは、GOEです。

突然ですが、いい写真とはなんでしょうか?

”いいとは?”ってある意味で究極の問いだと思うのですが、写真を撮っていて私自身も度々自問自答する問いであるのと同時に、意外と気軽に良い写真って何?と質問していたり、良い写真論と勝手に名付けているのですが、プロ・アマ問わず色んな人が色んな所で自己流の良い写真論を展開していると思います。

さて、そこで私も自己流の良い写真論を少し書いてみようかと思います。


みんなの良い写真論の話

まず、各所で見かける良い写真論を見ているとなかなか面白いです。

写真家の自伝みたいな書籍から、フィクションの物語、映画やアニメの登場人物の語る写真論まで、本当に色々なところで良い写真の話は語られます。

フィクションの登場人物が語る内容とは、つまりそのフィクションの作者が思っていることであり、登場人物がその物語の中でどう見せたいのか、勘違いカメラマンにしたいのか、真のカメラマンとして描きたいのかによって勘違い野郎が語る写真論のつもりで作者が用いているのか、真のカメラマンが語る真の写真論として書いているのかはあっても、作者の中に一つの写真論はあるのだと思っています。

それらについて正しいとか間違っているとかは言いませんが、大雑把に見て、色々な人が語る良い写真論は以下の3つのタイプに分けることができると感じています。

① 精神論タイプ

② 技術論タイプ

③ 俺はこう撮るタイプ


①の精神論タイプとは、例えば「心が反応した瞬間を」「世界の一瞬の美しさを」「神様の目で日常を」「写真に心が宿る」のような、それなんてポエムと言いたくなる具体性の無い部分に良さを見出しているタイプです。

主にアート系に軸足を置いている人に多く見られ、映画の登場人物などがカメラマンだったりカメラを持っていて写真を語る時はほとんどこれです。現実の写真家でも芸術、アートとして写真を撮っている人が語る良い写真論はこれのことが多いと感じます。

おそらくアーティストとして一定の答えが既に見えているのだと思います。良い写真とは?と悩んでいる私から見ると、だからそれ具体的に何をどうしたらそうなるの?と聞きたくなってしまうのですが、きっとそれは聞く方がおかしいのだろうというのも少し分かります。精神論タイプの答えを見出している本人たちの中には独自の答えが大なり小なり見えていて、それは口でどうこう言えるものでもないのだと思います。

ただ、必要以上に写真それ自体を神格化しようとしていて、それっぽい雰囲気を出すために適当言ってない?と思う人もたまーにいたりして。


②の技術論タイプは主に仕事で依頼されて写真を撮る人に多いと思います。

趣味で撮っていても、特定の被写体を日々狙っている人もこのタイプが多い気がします。

キーワードとしては「構図」「バランス」「露出」「時間」「種類」「タイミング」などとにかく具体性の高い言葉が出てきます。

例えば「この被写体は全体が写っていて尚且構図的に空とのバランスが良くなるように意識して撮影されている、また空が良い色になるように時間や場所にも気を使っているのがわかる」など、良い写真の条件がかなり明確に本人の中にあります。

乗り物や食べ物を撮るのが好きな人やインスタ映えを目指して撮る人など、撮る対象や目的がかなり具体的に決まっている事が多く、それによって何故撮るかで悩むことがない分、どう撮ったら良くなるかを考えているのだと思います。

仕事で依頼されるプロカメラマンも、目的がハッキリしていてさらに〇〇カメラマンと得意ジャンルを持ったプロが多いので、プロカメラマンとして良い写真論を語るとこう具体的な技術論になるのではないでしょうか。

かなり具体的なので分かりやすい反面、写真てそんなに分かりやすいもの?それだけやってりゃ良い写真なの?と表面的に思えてしまうことも。


③の俺はこう撮るタイプは、①と②のちょうど中間とも言えるタイプです。

私が見ている限りですが、写真家に多い気がします。①の芸術やアートというよりも、ただただ写真を撮ってそれを発表という写真を使った芸術活動ではなくて、ただ写真活動をしている写真家に多い印象です。

内容も①と②の間といった感じで、イメージとしては「俺は街の気配を写真にしたい。だからフラッシュは使わない」「この美しい色を表現したいからこの時間じゃなきゃだめ」のような、自分の中の精神論的な部分を写真にしたいから技術的に何処に重点を置いているかという部分も付いてくるタイプです。ただし、それが技術的に正しいかは別で、例えば街の気配を写真にしたいからフラッシュは使わないポリシーの人がいる反面、同じく街の気配を写真にしたいからあえてフラッシュを使うという人もいるのがこのタイプのおもしろいところで、表現のために何をどうするかは個人の感覚しだいで方法自体に正誤は無いのです。

独自のポリシーで写真を撮り、その方法も考えているのが見えるので共感できればかなり納得できる反面、相容れない人は言ってることは分かったけど無理、受け入れられないとなりやすいと思います。

一つ注意しなければならないのは、誰かの良い写真論を見た時に、あぁこの人はこのタイプかと思うと間違えるということ。

おそらくほとんどの人が最重要だと思っていることを語るので3タイプのどれかで語ることになっているのであって、例えば①の精神論で語っている人が技術的に何も考えていないかと言えば決してそんなことはなく、誰しもこの3つの感覚を全て持った上でその配分に差があるのだと思います。


正しい写真と正解の写真の話

いい写真とは?の前に、写真には正しい写真と正解の写真があると思っています。少しその話を。

写真には適正露出という言葉が使われることがあります。

写真がレンズから入ってきた光を記録したものという科学的な性質上、その記録した光の量が適正な量かどうかという問題が絶対的にあります。

これが写真が正しいかどうか。

例えば、顔の左半分をライトでめちゃくちゃ照らして明るくして証明写真を撮ったとします。そうしたところ、左半分が真っ白な右半分の顔しか写っていない写真ができたとします。

さて、この人は実際に左半分の顔が無い人なのか?違いますよね。また、ピンクや青のライトで照らして撮ったらどうでしょう?やっぱり本来の顔色ではなくなります。

写真に写った物がニュートラルな状態の現物と照らし合わせて同じく見えるように写っているかどうか。これが正しい写真かどうかだと私は考えています。

写真は見たままの現実を写すかどうかという問題がありますが、この場合、見たままを写すように細心の注意を払って限り無く見たままにした写真というのが正しい写真となります。


これとは別に、正解の写真というものもあると考えています。

これは目的に則した写真かどうかという話です。先程の右半分の顔しか写っていない写真で言えば、その人の顔を正しく表示はしていませんが、例えばそれが雑誌の表紙として凄くカッコ良く、売上が伸びるのであれば普通に正しく撮った写真よりも雑誌の表紙として正解の写真になると思うのです。

商品を売りたい時はみんなが欲しいと思うようにカッコよく撮られた写真が正解。逆に売りたくないのならダサく撮る方が正解になるのです。

分かりやすいのは旅行会社の広告の凄く綺麗な風景やホテル。売りたくない方向で言えば覚せい剤防止のポスターなどは暗めの写真を使ったりしています。決して青空と満開の桜と共に注射器の写真を撮ったりはしないのです。

何を目的として、何を伝えたくてどう撮るのかというのが写真としての正解かどうかになります。

ただし、正解というのはTPOを間違えて使うとすぐに不正解な写真になったりすることがあります。

簡単に言えば通販の写真で売上のために過度に演出してしまうと詐欺まがいになるなどの話。


さて、この写真の正しさや正解といった話と、先程の3タイプに分けられると言った良い写真論には決定的な違いがあります。

良い写真論については、それが写真を撮る側の目線から語られている一方、写真が正しいか、正解かというのは撮られた写真それ自体を見た時の、見る側の目線だということです。

私はここに良い写真のヒントがあるような気がしています。

それについて書いていこうと思うのですが、想像以上に長くなってしまったので、記事を分けようと思います。

ということで、今回はここまで。次回は上記の話を元に私が考える自己流の良い写真論について書くつもりです。



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