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M4-3 二十一世紀のフローティング・ドローイング(2010年12月『モダニズムのナード・コア』)

「アニメ絵」の個性

「一枚の絵は一万字にまさる」とは大伴昌司の有名なコピーだが、言葉が思考に直結するのに対し、絵は認識に直結する。イラストレーションが旧来から与えられてきた役割│空想の具象化・瞬間の記録・内容の図説│はおおよそ視覚伝達であり、主な活躍の場である広告・絵本・パッケージ・挿画ではまさにそれを求められてきた。写真の登場以降、現実の忠実/細密な再現は以前ほど必要とされず、代わりに省略と見立てのヴァリエーションから生まれる新鮮な印象が尊ばれるようになる。イラストレーターの個性とはこのヴァリエーションをさし、「何を・どう・描く/描かないか」の判断および描線で表される。

 さて、昨今のイラストレーションを語る上で無視できない、九〇年代以降に台頭したヴァリエーションの一つに、アニメのキャラクター様式がある。アニメの線はもともと産業の要請上、多人数が均一に描けることを前提にした没個性的なもので、作画監督や原画担当のわずかな癖に手がかりが残される程度だった。だが七〇年代末から相次いで創刊されたアニメ雑誌の巻頭をそうしたイラスト(キャプチャ画像およびアニメーターの描き下ろし)が飾るようになってから、その匿名性の高い線とフラットな色使いが新しいフェティッシュを生み、一種の様式として認知され、アニメ以外の媒体にも波及していく(マンガにも、アートにも!)。このように成り立ちから再現/代替可能性を内包していた「アニメ絵」は、技術を磨くことで習得できるスタイルとして広く参照され続けている。

デジタル環境の分断

ここでパソコンの大衆化・高性能化による環境変化にも触れておくべきだろう。プロとアマチュアが同じ機材を使うようになったとはよく言われるけども、特に作品の完成度はアプリケーションの修練度に比例しやすく、幅広く共有されるブラシのパターンや便利なハウツーは独自性を曖昧にした。タブレットの筆圧感知も、肉筆を完全に再現できない劣化要因ではなく、若干の意志や迷いをそぎ落とす効果となって久しいし、絵の具の調合にすら個性が出た頃と違い、スポイトツールで他人のイラストのRGB/CMYK 値を瞬時にコピーできる現在、個性の領域は着々と技術に侵食されている。

 こうした、没個性からはじまった「アニメ絵」と、本来個性とされてきた要素が霧散していく「デジタル環境」の相性のよさが、一番目に見える形で表れているのがPixivの人気ランキングだろう。上位のほとんどは、共有された「こうすればうまい絵になる」というハウツーの積み重ね、メソッドの組み合わせによるイラストであり(そもそもメイキング解説の人気が高い)、そこに各作者の筆圧と曲線の癖が加味されることで、無数のヴァリエーションを生んでいる。どれも非常に上手く、質の高い、間違いのない作品でありながら、しかし単純にそれが個性的であるとは言いづらい、職人的と呼んだほうがよさそうな状況になっている。いや、現代において一目で判断できる個性は単に違和感でしかなく、多くの約束事の上に成り立つ微細な差異にこそ個性が宿るのだと言えるかもしれない。アーティスト(芸術家)とアルチザン(職人)が同じ語源を持つことを思いださせる。

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