PR誌の時代と雑誌の近未来(2018年『GRAPHICATION』電子版第14号)
かつてPR誌の時代があった、と知ったのは、一九九九年頃に友人と古本屋で見つけた『たて組ヨコ組』六号(一九八四年一〇月)を読んだときだったと思う。この『たて組ヨコ組』という雑誌自体もフォント会社「モリサワ」のPR誌で、うちのフォントを使うとこんな誌面になりますよという印刷・組版見本を兼ねた雑誌なのだが、だからといって内容はいい加減かといえばまったくそんなことはなく、毎号充実の特集を組んでいた。とくにこの六号は「カウンターカルチャー&デザイン’60s」特集と題して、アングラ演劇、ブックデザイン、雑誌、劇画・コミック、前衛映画・実験映画、暗黒舞踏……といった項目を立てて、大量の図版と当事者のコメントを並べた、六〇年代文化を検証するうえで必携の一冊である。
このなかに「PR誌」という項目があった。そこでは一九六二年頃に第一次PR誌ブームがあり、一九六五年の不況を挟んで、六〇年代後半から一九七三年のオイルショックまでのあいだに第二次PR誌ブームがあった……と解説されている。ロック、アングラ、前衛などの“若者文化”としてのカウンターカルチャーと、企業の宣伝広報誌であるPR誌が、六〇年代に接近・交感し新たなメディアとして台頭していたことなど、この特集を読むまでは考えもしなかった。その参考図版として、資生堂の『花椿』、エッソ・スタンダード石油の『エナジー』、ミノルタカメラの『ロッコール』などと一緒に紹介されていたのが、富士ゼロックスの『グラフィケーション』であった。
掲載されていたのは一九七〇年の二月号と九月号。井上洋介イラストの「ロボット」特集号と、矢吹申彦イラストの「ニューロック」特集号だ。後者は中面の見開きも少量載っていて、そこに写っているどこかの野外イベントの風景は、音楽好きの自分の興味を引くには十分なものだった(一九七〇年七月二五日から一週間、富士急ハイランドで行われた「ロックインハイランド」というロックフェスティバルの写真だと判明したのはずいぶん後である)。富士ゼロックスってコピー機の会社だよな、なんでそこのPR誌がニューロック特集なんだ、と、どんな雑誌かはいまいちわからなかったものの、ひとまず「古本屋で見つけたら買うリスト」に『グラフィケーション』の名前を追加したのである。そして、そう簡単に手に入るものではないことがわかってきたのは、古本屋で五年以上、一冊も見当たらなかった頃からだ。
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2001年以降に雑誌等に書いた記事を全部ここで読めるようにする予定です(インタビューは相手の許可が必要なので後回し)。テキストを発掘次第追…
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