雑記『勉強する』

僕が学生の頃は00年代でした。
当時SNSなるものが初めて生活に入り込んできて(まだmixiでした)、人から招待されないと始められないなんて、「じゃあだれがどうやって始めたの?」などとみんなで練習室で話し合ってしまうほど、僕らは原始的でした。
YouTubeも然りです。
当時はチャンネルを開設して広告収入をガポガポ得ている人なんていませんでしたから(世はニコ生等、配信全盛期で仕組みが整っていませんでした)、個人的な演奏の動画をあげているのは見事に超人か変人だけでした。
ついでにいえば、ナクソスも同じ。
今では盤面の"クラシック"をまとめて受理できる玉手箱のようですが、当時は「国籍すらどこやねん…」*という、原語でググっても正直あんま出てこないし、実在さえ疑ってしまうようなアツいパーマのチェリストのジャケットが忘れられません。今、どこを探してもまだ彼を見つけることができていません。

現代は夢のようです。
一生勉強できます。「学び」ではなく、勉強です。
ただ僕は環境に流されやすいので、そうなると今度は考える時間がなくなり、新しい感覚的発想が全身へ浸透する前にさらに新しい発想が入れ替わるようにやってきたり、上書き作業ばかりで粘度が高まりません。
外へ出て、怖い人(自分がめんどうに感じる人)に打ち返してもらう。
そのためには、社会にとってある程度役立ってないと、当然ですが誰にも相手にしてもらえません。
その視座から"再起"はむりなので、再構築することにしました。そのためにまず勉強と思慮が必須だと日々感じています。

*大阪交響楽団在籍当時、軽口にはエセ関西弁を適度に用いた。

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