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デジタルなあの世について考えてみる。

脱輪さんの「 テロルの挫折とデジタルなあの世 〜『ときめきに死す』発、『エヴァ』経由、『黄泉ネット』行き〜」の3つの記事を読んで、『黄泉ネット』を見た。
ということで、(3つの記事のうち主に【後編】の)感想。

『黄泉ネット』のあらすじも含めて、まずはこちらを読んでください。


インターネットという「デジタルなあの世」に対し、アナログな古臭い(ノスタルジックで馴染みやすい)イメージを持ち込もうとする人間の防衛本能。
そこから真っ先に思い出されたのが『黄泉ネット』からおよそ10年、mixiやモバゲーが流行し、Twitterも流行り始めた頃に公開され、『学校の怪談』シリーズと同じく夏休みのファミリー映画でもあった映画『サマーウォーズ』だ。
『黄泉ネット』に起こる危機は「デジタルなあの世に踏み入れてしまう、それによって孤独になる危機」だが、10年も経つとその危機は反転してしまう。
上述の【後編】の記事に、
”2010年代に入ってデジタルなあの世をすら飼い慣らし、利便性に奉仕するツールとして日常に組み入れるに至った。不安な呪具は完全な道具に変わり、世界はスマートフォンとともにわれわれの掌の上に乗っているかのように思える。”とあったが、この映画の内容はそれを予言するような内容である。
個々人の私生活も行政も支えている、というよりその上で成り立つ社会になってしまったネット上の仮想空間で起きた危機。そこにすべて依存してしまったがために現実社会の方へと危機が氾濫することになる。デジタルなあの世の方から現実へと侵食してしまうのだ。
そしてその危機を迎え撃つ手段は本作のキャッチコピー「つながりこそが、ボクらの武器。」に表されている。舞台設定が、戦国時代から続く信州の田舎の伝統ある大家族のお屋敷という現代の日本人からすればノスタルジックの極みのような空間で、大家族を中心とする人とのつながりによって危機を克服する。
サイバーテロが起きている事態の中、ご先祖の武将の戦術についてのおじさんによる講釈や、武道の稽古、政財界への要職に就く教え子たちをもつ曾祖母による励ましの電話など、実際何の役に立つのかわからないシーンが描かれるのも、失われつつあるアナログな「人とのつながり」を回復することによってサイバー空間に生まれた闇を追い払いたいという希望からなのだろう。

『黄泉ネット』では、最後にお札をスキャンして黄泉ネットに送ることによって助かるという場面があるが、お札というアナログな風習を用いつつ、この場面にはデジタルなテクノロジーをもってデジタルなテクノロジーが生んだ闇を制する痛快さがあった。
デジタルへの不安だけではなく、この時代はデジタルへの期待感もあった。

『サマーウォーズ』にはそういう場面がない。
もちろん、サイバー空間で戦い続ける時点でデジタルなテクノロジーを使っているのだが、最後の祖母から習った花札で敵のラブマシーンを打ち倒す場面もひたすら「人とのつながり」の方が強調される。もうこの年代ではデジタルへの希望も失われてしまった。
デジタルと現実に近づきすぎたから、あるいは親しみすぎたから、デジタルへの希望や期待感が薄れてゆくのか。
それとも現実がデジタルに飲まれて手も足も出なくなったのか。

『黄泉ネット』の中でのセリフに、
「なるほど〜、おばけも闇を求めてインターネットの世界に迷い込んだってことですか」
とあるが、近代文明が生み出した技術が社会を明るくすればそこから追い出された「おばけ」は、その技術の闇(未知の部分)へと逃げる。
写真機が発明された結果、写真という技術に対する未知から生まれる不安や現実との差異から心霊写真なんてものが生まれた。
写真がフィルムからデジタルへ移行し、写真と現実が近づくと心霊写真は消える。そして写真に宿っていた幽霊お化けはどこへ向かうか。

”「闇を求めてインターネットに迷い込んだおばけ」が成仏することはないだろう。
なぜなら、「おばけ」とは結局、他者とのディスコミュニケーションの残滓であるにほかならないからだ。”
【後編】の記事にあったように、インターネットというデジタルなあの世に潜り込むことになる。
現在の我々が写真を撮る、そして撮られた写真のほとんどはネット上で保存か公開されているだろう。写真を投稿するSNSが流行して、現実の人間はデジタルな写真によって社会に定位しようとする。

ここから、話が少し脱線します。
『黄泉ネット』を見て、表面的なホラーの意味での「怖さ」の点から考えると、デジタルと現実は近づきすぎない方が怖い。

「ブラウン管のテレビの画面はあれは本質的に怖いものだと思う」と知人が言っていて、たしかにそうだなと思ったことがある。
あの画質や砂嵐もそうだし、丸みを帯びているせいで消したときの暗闇も歪んでいる。
『リング』の怖さは液晶のモニターでは生み出せない。
同じJホラーだと、『着信アリ』も、あの当時の着メロの、音楽に成り切れていないような限定された和音の音楽だから怖い。

また、20年程前にまだ個人運営の「怖い話」や「怪談」のホームページ、掲示板が山のようにネット上に存在していた頃には、本当に黄泉ネットのようなものに繋がってしまいそうな怖さがあった。
運営している人間の生々しさを感じることはあったが、今の写真や動画を大量に上げられるSNSよりも、当時の個人運営のホームページのチープなデジタルっぽさゆえに生まれた、ネット上と現実との距離感から生まれた怖さだったのかもしれない。

ここまで書いていて気づいた。
『黄泉ネット』の当時の大人たちが、インターネットというデジタルな「おばけ」に迎え撃つためにノスタルジーなイメージを用いたのと同じく、その時代に少年時代を過ごしたデジタル世代の僕は、デジタルなあの世すら飼い慣らされた現代において、あまりにも現実と一体化してしまったデジタルへの恐れから、少年時代のデジタルな世界をノスタルジーなイメージとして思いを馳せつつ逃避しようとしている。


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