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外套を持っていない。

 ・ちゃんとした格好 
 大学を卒業してから、「ちゃんとした格好してる」と言われることが多い。たしかに、だいたいいつも「そこそこのホテルで食事できる格好」をしている。別に高い服を着ているわけでも、こだわりがあるわけでもない。
 何故そうなったかと考えると、大学卒業後、社会的責任を背負ったことがないために、ちゃんとした社会人に対しての劣等感が常にあるからかもしれない。学生の頃は「毎日スーツを着るなんて絶対に無理だ」と思っていた人間が、卒業後「ちゃんとした社会人」になってもいないのに「ちゃんとした格好をしてる」と言われるのはほんとに滑稽だと思う。

 ・外套の話
 近藤聡乃の『A子さんの恋人』という漫画を読むと、後藤明生の小説『挟み撃ち』を読みたくなる。  
 『A子さんの恋人』は元恋人から借りたコートを返せないままニューヨークに行った漫画家のA子が帰国中、そのコートのせいで元恋人と縁を切りたくても切れないという、主人公が過去と現在に挟み撃ちされる話で、だから『挟み撃ち』を思い出すのかもしれない。
 ある日突然、学生時代に着ていた旧陸軍歩兵の外套がいつどこで失われたか気になった「わたし」がその行方を探し求める『挟み撃ち』、この物語の外套や『A子さんの恋人』に出てくるコート、そういえば僕はそんな外套もコートも持っていたことがないということを、ある日突然、何年も前から持っているコートを着て寒風の吹く難波橋の上で気がついてしまった。

 それはつまり『外套』のアカーキーのように外套を奪われても、そのために死んで亡霊になるような、そんな執着すべき服を持っていないということだ。
 今持っている服のほとんどが失っても気にならない服(経済的に多少困る)で、また、あの時着ていたはずだが今はない服の行方もほとんど覚えていないし気にならないし、昔、人に渡していたとしても捨てられていても気にならない。
 なぜなら、ロシアの下等役人が年収の幾分かを投じて仕立てた外套のように身を削って買ったものがないからであり、さらに言うと、自分が自分であるために意識して着ていたものがないからだろう。
 考えると若干寒気のする話で、いまに至るまで、人生のどの時点でも、そのとき着ていた服を仮に失っても気にならないとするなら、世界から見られていた自分の表面積の大部分は透明になっていくようで、どんどん僕の存在が消えていくようで、ではそのとき自分はどうやって世界に存在していたのかというところまで追いつめられてしまう気がする。僕は挟み撃ちされることすらない。
 よく着ていた服はある、と思う。写真を見返せばあるはずだ。ただ、自分で自分の写真を撮ることが少ないので、僕の写真は誰かが撮って所持していて、そしてその誰かと会うことはほとんどない。
 そう考えると、ファッションに対する姿勢と人間関係に対する姿勢は似ているような気がする。
 「とりあえず」「差し当って」の服を着ていたからそれらを失っても気にならないわけで、これはそのまま人間関係にも当てはまるから恐ろしい。劣等感だけで「ちゃんとした格好」をしている場合ではない。また、お金を出して高い服を買えばそれで解決するわけでは当然ないのだけれども、どうしよう。
 A子さんにコートを貸した元恋人のA太郎は自称「市井の男前」で髪の毛すら友人に切ってもらっている。ファッションにはむしろ無頓着で「こだわらないということにこだわりがある」という魅力のある人物(だから誰からも好かれる)で、本当に何もこだわらないならここまで行くべきなのだが、僕はそうなれそうもない。
 というわけでそろそろ一生着れるような良い服を、収入の何分の一ほどにもなる外套のような服を買おうと思ってます。

 「ユニクロの話をしよう」という脱輪さんのツイキャスを聞いて、僕はファストファッションを買うのに全然抵抗がないけど、そろそろ裏地がポリエステルじゃない良いコートを選んで着てえなとか、そんな話を書こうと思ってたのに、(自分にとって)嫌な方向に走ってしまった。

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