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外宮の三ツ石はパワースポットなのか問題

自分が子供だった昭和40年代~50年代のころと今とでは、伊勢神宮に人々が参拝する様子も大きく変わりました。

内宮の一の鳥居を過ぎて右側に、五十鈴川の河岸に降りられる「御手洗場」があるのですが、よく記憶しているのは、そこから川の中に硬貨を投げ入れる人がすごく多かったことです。たくさんの錦鯉も泳いでおり、川底を覗くと何百枚、何千枚という大量の10円玉、50円玉、100円玉が沈んでいました。今、その頃のように五十鈴川にお金を投げている人などまったく見かけません。あれは皆さん、お賽銭のつもりだったのでしょうか?

反対に、昔はまったく見かけなかったのは、内宮参道の神宮杉の大木を撫でさすったり、手を当てて瞑想(?)している人や、外宮の境内にある「三ツ石」に手をかざしたり、拝んだりしている人です。
こうした人々を見かけるようになったのは、前々回の平成5年の式年遷宮後からと思います。その後のパワースポットブームがSNSで拡散され、今ではほぼ常時、こうした人々を見かけます。

三ツ石に関しては伊勢神宮側も、「近年、手をかざす方がいますが、祭典に用いる場所なのでご遠慮ください。」とホームページで明記していますし、こうした誤った行動に心を痛めている方々もネットで情報発信されたりしているので、今はかつてに比べると幾分ましになってきた気はします。

しかし、このように三ツ石を「訳もなく拝む」参宮者というのは古来から一定数いたようです。
江戸時代初期の外宮神職であった河崎(度会)延貞が著した「神境紀談」という本では、外宮にある「御池」の説明として三石(三ツ石)のことも触れられています。
「中御池(なかおいけ)の前に石を鼎足の如くに三箇居置(みつすえおける)を三石という。月次、神嘗祭又は遷宮の時、御巫内人(注:みかんなぎうちんど 祭事を斎行する神職のこと)川原禊をこの三石に著きて勤るなり。」
とあり、要するにこれは神事を行う場所の目印であると解説しており、それ以上のコメントはありません。

また、時代が下り、江戸時代中期の外宮神職であった喜早(度会)清在が著した「毎事問」という書物にも三ツ石は登場します。
この「毎事問」は、伊勢神宮の知識をQ&Aで解説している本で、江戸時代にもこんな本があったのかと驚かされますが、この上巻には次のような記載があります。
問 遥拝所の南にある三石というは如何なる名石ぞや。
答 かつて
(注:過去から、の意味)名石にあらず。これは御巫内人等祓いを習する所なるゆえに目当てに石を据え置きたるなり。
 非常に明快です。
この「毎事問」を見ていると、当時の外宮にはこの三ツ石のほかにも「忌屋敷前の二本檜」とか「一本榊」などといった、参詣者がこれは何だろうと思うようなオブジェがあったらしく、やはりこれらを拝む人がいたようです。
清在は、これらは「この所、斎場なりという目印のみ」であって、「これを拝する人あるは笑うべし」とさえ書いています。これはおそらく、伊勢の地元の方の大部分もそう感じていることでしょう。

この三ツ石がある付近、すなわち外宮の正宮(本殿)と、多賀宮、土宮、風宮の間には、かつて豊川という大きな川が流れていました。今から千数百年も昔の、外宮創建当時のことです。
外宮を含む今の伊勢市中心市街地(山田地区)一帯には、現在の一級河川宮川から分岐して、豊川、清川、小柳川、北宮川など多くの河川が流れていたのです。
これらの河川は、平安、鎌倉、室町と時代が下って山田が鳥居前町として人家が増えると埋め立てられ、宮川にも堤防が築かれ、さらには明応地震による地盤隆起によって水量が減少してしまい、ほんの小さな小川や溝へと変化しました。外宮の今の御池や勾玉池は旧豊川の名残だと考えられています。

その頃は式年遷宮の川原大祓も豊川のほとりで行われており、それは流れが失われた今でも伝統として連綿と引き継がれています。
その豊川の河岸であることを示している目印こそが三ツ石なのでした。

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