見出し画像

古くて新しい 外宮ゆかたで千人お参り

<ゆかたで千人お参りに行ってみた>
きのう8月1日は、伊勢神宮の外宮(げくう。豊受大神宮。)と月夜見宮で、「伊勢神宮外宮さん ゆかたで千人お参り」というイベントが行われていました。民間の実行委員会が主催しているもので、今回で26回目になるとのことです。伊勢市では夏の風物詩として定着しています。

伊勢神宮は、通常なら夜間は、参拝はもちろん、境内に立ち入ることもできません。この日はその例外となる貴重な機会。浴衣姿のたくさんの老若男女の参詣者が訪れていました。もちろん、浴衣以外の服装でもかまいません。

参道には提灯が置かれ、ほの暗くあたりを照らしていました。すっかり闇に包まれていますが、上をみると空はまだ明るさが少し残る群青色で、何とも幻想的な風景です。

正宮(本殿)前の拝殿も提灯がともされ、思い思いに祈る人々の姿がありました。午後7時を過ぎるとさすがに涼しさが感じられ、時々セミの声や風の音が聞こえ、感性が研ぎ澄まされるような感じでした。

参拝を終え、再び真っ暗な参道を戻ると、竹明かりのモニュメントがあり、町の方では露店が出たり、いろいろなイベントも行われていたようで賑やかでした。このような機会を作ってくれた主催者の皆さんに感謝したいと思います。

<ところで八朔参宮とは?>
伊勢(宇治山田)では江戸時代、旧暦の8月1日、今の暦に直せばそろそろ秋めいてくる9月上旬に、まじかに迫った稲の収穫の無事を願って、周辺の農村の人々が伊勢神宮に参拝する「八朔参宮」という行事がありました。
昭和31年に出版された神宮教養叢書2「伊勢信仰と民俗」(井上頼寿著)によると、八月一日の項に
『神都(注:旧宇治山田市街のこと)では早朝に起きて参宮をし、附近の農民は穀物の穂をお供えした。』
と書かれています。
しかしながら、この本には、実は8月1日には八朔参宮より重要な「櫟神(いちいがみ)の祭」という祭事があったことも書かれています。山田一之木町(現在の須原大社という神社)にある櫟の神石のお祀りのほうが、八朔参宮よりも先に書かれているのです。
当時の山田(外宮の鳥居前町)に在住する住民の多くは、農業ではない都市的な職業に従事していたのですから、豊作を祈願する八朔参宮よりも、井戸から発掘されたと言い伝わる、霊験あらたかな櫟神の神石へのお祀りのほうが、ずっと身近であり重視もされていたのは当然とも言えます。

<変質する八朔参宮>
しかし、時代を経ると八朔参宮のニュアンスもかなり変化して伝えられるようになります。バブル景気真っ盛りの昭和63年に出版された「伊勢市の民俗」という本にはこうあります。
『八朔御供 旧暦八月朔日のことである。二百十日をひかえ、稲の穂出しの時期に当たるため厄日が無事にすむようにと祈り粟餅を食べた。八朔参宮といって両宮参拝する村もあった。』
ここで初めて「粟餅を食べる」話が出てきます。しかし、参拝する村もあった、とも書かれており、やはり一般的な習俗とは説明していません。

それが、この、ゆかたで千人お参りの主催者の一つでもある外宮にぎわい会議のホームページによると、
『8月1日は八朔(はっさく)といいます。伊勢ではかつてこの日、五穀豊穣や無病息災を祈った「八朔参宮」という習しがありました。』
とあって、これは伊勢の習わしであり、しかも無病息災までも祈ったと断言されています。これは史実としては疑わしいと私は考えます。

<新しい伝統の創造>
ただし、史実うんぬんはともかく、いにしえの伝承を生かして、新しく現代の息吹を吹き込み、再生発展させていく試みが悪いとは思いません。
ポスターにもあるように、これは新しい祝祭なのです。夏の夜のお参りが感動的な体験だったことは間違いありませんでした。

ただ、インスパイヤはされたものの、これが本来の八朔参宮とは全く違うものであることははっきりさせておくべきと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?