『レヴィナスの時間論: 『時間と他者』を読む』内田 樹 (著) と「天上天下唯我独尊」


はじめに

GWは1日の出勤を挟んで、10日間まとまった時間ができたので、待ちわびていた内田樹(以下、内田老師)の『レヴィナスの時間論』をじっくり読むことができた。
以下、本書の感想と、内田老師について、そして本書を読んで思い出した高校時代のエピソードについて書いていく。私の高校は仏教校で、当時は言語化できなかった宗教的実感というものを、本書を通じて言語化することに取り組むことができたと思っている。後半で詳述するが、「他不是吾」というエピソードを初めて聞いた時の衝撃や、「天上天下唯我独尊」という母校の標語は、自分自身の血肉となっていたが、本書を読むことを通じて、それらを再認識することができた。
書いた前には想像のできなかったことをが、書いた後にはそこにあるということは非常に不思議なことである。

『レヴィナスの時間論: 『時間と他者』を読む』内田 樹 (著)の内容紹介

それでは、本書のおおまかな紹介から始めていく。
内田老師のレヴィナス老師三部作の集大成の本書は、難解な『時間と他者』の逐語的に解説をしていく、大学の授業のような本である。
わかりにくい部分があれば、その都度その都度、解説を加えていくのだが、難解で解釈のできない術語にはいったん無理に解釈をすることなしに、読み進めるよう読者に呼びかける。真にテクストを読もうとする姿勢のようなものを、文章とは異なるメタ的な視点で教えてくれるところも、本書の非常に素晴らしいところである。(内田老師の本は常にそうなのだが)。

ハイデガー哲学への批判

本書はレヴィナス老師のハイデガー批判を丁寧に読み解いていくことから始まる。ハイデガーのファンであったユダヤの青年・レヴィナス老師にとって、卓越した哲学を展開するハイデガーがナチスに協力したというその事実は、大変なショックであった。ハイデガー哲学がたいしたものでなかったのなら、その事実は簡単に受け入れられたであろうが、そうではない。WW2後のレヴィナス老師の最初の仕事には、ハイデガー哲学を正確に読み解くことで、なぜナチスに協力することが哲学的帰結としてあり得てしまったのかを突き止め、そして、そのようなことが行らないような哲学体系にアップグレードすることであった。そんな生身の自分の実感を哲学のよりどころとしているところに、『時間と他者』、ひいては本書のすごみがある。そのため、本書の序盤は、ハイデガー哲学の精読とその批判から始まる。
 
ハイデガー哲学が前提としているのは、西洋哲学のうちにある、すべてのものを光に照射し、把握しようとする営為である。
もう少し説明すれば、すべてのものは論理的には理解可能である可能性を前提に、哲学を始めていることである。しかし、レヴィナス老師はそこに異議を唱える。
レヴィナス老師の哲学は、他者というものを考えるとき、完全に理解を絶したものとして考え、さらに、それでいてその他者に対してどうふるまうかという、とんでものない難問に挑もうとするのである。
レヴィナス老師によれば、光を与えて、理解可能性を見出した時、他者の他者性は毀損する。つまり、何かわかるかもしれないという期待感には既に同胞意識が含まれているのではないかというのである。しかし、レヴィナス老師の哲学は、その可能性を退ける。そして、退けた上で、他者とどのような対話ができるのかを考えるのである。

レヴィナスの時間論

そこで、レヴィナス老師が引くのが、時間である。時間は絶対的に、認識が不可能である。そんなことはないと思うかもしれないが、我々が時間を表象するとき、かならず空間的比喩を使用してしまう。矢印の起点が、過去であり、その中間地点が、現在であり、矢印の先が未来であるように、多くの人は時間を捉えるだろう。
しかし、時間をその矢印の如く見ている客観者、または絶対的な視座は、はこの世に存在するのであろうか。それは存在しないであろう。空間的比喩を一切退けたとき、人は時間について人に説明することができるのであろうか。そう問いを立てた場合、それは否である。
つまり、時間とは、理解を絶した存在であり、そしてその理解を絶しているという一点を他者と共有しているのである。他者という漢字は、他の者という人間的なイメージを読み手に持たせるが、本書における他者とは、もっと広い意味での、他なるものでも言うことができるだろう。
 
話の流れは、他者論から一神教の成立過程まで進んでいく。人間が神という存在をイメージすることと、時間意識の成立は、同時ではないかという新たな仮説が始まる。時間は絶対的な他者であることは先ほど述べた通りであるが、神もまた、人間にとって理解を絶した他者であると認識することを一神教は求める。一神教が固くなに偶像崇拝を禁じるのは、神の存在認識を視覚に偏らせない、というより人間に認識可能なものであると思わせないためである。
人間はかつて、時間の他者性を感じた際に、神を想起する権利を得たのである。私たちは、時間を知覚することはできないが、時間の中を生きている。時間を理解することはできないのだが、死という明確な終焉をもとに、時間の切迫を感じることができる。神もまた、そうである。私たちは、神を知覚できないし、理解することができないが、その切迫を感じることができるのである。
上記の流れにおいて、時間意識の成立と、神の存在の意識は同時期ではないかとレヴィナス老師、というか解説者の内田老師は述べるのである。

切迫という他者との関係性 

上記の切迫は、呼びかけという形で表れる。
旧約聖書において、アブラハムやモーセは神の啓示を受ける。しかし、その啓示の内容は人間の言葉では理解ができない。しかしながら、その啓示を彼らは自分宛のものとして受け取ったのである。その理由はわからない。ただ、それは直感的に私宛のメッセージであると感じたのである。何かの啓示を自分宛のメッセージとして受け取ることに、レヴィナス老師は神と人間の関係性を見出す。それは、まず何かのメッセージがあって、その後誰かが受けとるという受け手の時間的な遅れである。他者との接し方、神との接し方において時間が重要な概念であるのはそのためである。絶対的に埋まることのない、初期位置の遅れを実感することこそが、神と人間の関係であり、他者と人間の関係性である。主体がまず先にあるわけではない、主体は呼びかけられた瞬間にその都度、瞬間的に生成されるのである。
これが、理解をも共感も絶した他者に対して、他者の他者性を棄損することなく関係性を結ぶことであると、レヴィナス老師は語ったのであった。(と内田老師は語るのである。)
他者との関係性は、神秘であり、その都度一回性のうちに立ち現れる。それが、レヴィナス老師における他者との交わりである。 

レヴィナス老師と内田老師

レヴィナス老師の哲学は、これまでの西洋哲学とは一線を画するゆえに、満足できない人もいると思う。これまで、西洋哲学のベースとしてすべての光のうちにあて、理解の範疇に収めようとするという根本的な特徴からすると、上記の切迫のような話は、いささか具体的すぎ、人によってはオカルト的に感じる人もいるかもしれない。
しかしながら、レヴィナス老師はあえて具体的すぎる話題を叙述している。それは、ハイデガー哲学、そしてそれ以前の西洋哲学が絶対的な他者と存在させず、あるいは克服するべきものとして捉えてきた先に、ユダヤ人という他者を認めない姿勢や、その究極としてのユダヤ人の無化=ホロコーストを招いたのではないというレヴィナス老師自身のぬぐえない身体的直感があるからである。
レヴィナス老師は、文中で他者性の近い意味内容として、女性的というような自らのセクシュアリティから見た用語を使用しているが、レヴィナス老師は無自覚に、自らの属性やセクシュアリティに基づいた言葉を使用しているわけではない。あえて日常的な、そして、自分自身の属性の限界を謙虚に意識して文章を書いている。
 
この部分は非常に教化的である。なぜなら、レヴィナス老師のこの姿勢は読み手にも同様に自分自身の経験や日常、身体実感という自身の限界性を遵守しつつ、理解できる主体に生成されていくことを求めるからである。そうした読者の一回性の読みの中に、テクストをより豊穣にする営為がある。
 
そして、そのような読み方を、内田老師は体現しているのである。
他の著作でも繰り返し述べられているが、内田老師自身が、モーリス・ブランショの関連人物として、初めてレヴィナス老師の本を読んだ瞬間に、意味が理解できないが、自分宛のメッセージとして受け取ったことを告白している。
そして、その後の内田老師の人生の中で、当時は意味がわからなかったものが理解されているそのプロセスを生きるなかで、レヴィナス老師のテクストの豊穣性を自ら担保してきた実感が内田老師にはある。
 
そして、私もまた、そんな内田老師の文章を自分宛の文章であると直感し、読み続けてきた一人である。

私の過去の経験のレヴィナス的解釈

以下の文章は、内田老師の文章を、私の身体的な実感をかけて、私の過去の人生のある瞬間を叙述すること通じて、内田老師のテクストの豊穣性を担保しようとするものである。これは1人の読者の越権行為かもしれないが、書いていくうちに、何かに気づけるのではないかという期待もある。

「他不是吾」

まずは、理解も共感も絶した他者との、始原の遅れを自覚した明確な切迫の経験を、自分の中で探してみると、唯一思い出せることがある。
それは高校3年生の仏教の授業である。私の母校は曹洞宗を源流とする中高一貫の仏教校であるが、中学高校の6年間を通じて、「生き方」という宗教に関する授業がある。仏教だけではく、その他の宗教も満遍なく触れつつ、高校3年生では、曹洞宗の始祖である道元禅師や瑩山禅師について学ぶのであるが、まさにその「生き方」の道元禅師の留学中のエピソードを聞いた瞬間に、強烈な切迫の経験を覚えたことが思い出せる。
そのエピソードは「他不是吾」というものであるが、道元禅師は、中国に留学した際に、高僧の1人にかけられた言葉に由来する。道元禅師が留学先のお寺に足を踏み入れた際に、とある高僧が庭でキノコを干していた。道元禅師は、高齢でかつ位の高い僧侶が、キノコを干すという一種の雑用を行っていることに、違和感を覚え、「これはあなたのすべきことなのでしょうか」と語りかける。
その語り掛けに対して、高僧は「他不是吾」と返すのである。その意味は、「他人は私ではなく、一見雑用に見えるこのキノコを干すという日常的な営みも、他の誰でもない自分自身の修行として引き受けねばならない」というものである。
道元禅師は、その言葉のうちに、修行というものを経典を読む等の狭い意味で捉えていたことを悟り、食事の供与等のより日常的な営みもまた、禅宗における修行の一つであると深く反省することになる。記憶を頼りにしているため、正確性を欠くかもしれないが、このようなエピソードであったと私は記憶している。
 
そして、まさに私は、このようなエピソードをまさに自分宛のメッセージであると感じ取った。なぜ、自分宛のメッセージかと受け取ったかと言えば、そのエピソードを聞いたまさにその時、大学受験に向けて、数学の問題を解いていたからである。(いわゆる内職である。)
当時の私は、大学受験の科目以外の教科の授業中は、常に内職をしていた。部活生でもあり、時間のなかった私にとって、それが悪いことであるという自覚もなく、当たり前のようにやっていた。つまり、その時、学びと言うものを、試験科目という極めて狭い科目のうちに限定していた。そして、いつも通り内職をしていた私は、ふとした瞬間にこのエピソードを聞き、直感的に「学びの範囲を広げよ」と言われているような気がしたのであった。
比べることもおこがましいが、道元禅師がその時、修行というものをより狭い範囲で捉えていたように、私もまた、学びというものを狭い範囲で捉えていた。しかし、まさに当時の道元禅師とフラクタル構造をなすように、私はその狭い範囲から抜け出して、あらゆることを自らの学びとせよという啓示を受けたような気がしたのである。
今考えると、これが私にとっての切迫の体験であった。 

「天上天下唯我独尊」

今の話を叙述していた際に、もう一つ思い出したのが、母校の校訓でもあった、天上天下唯我独尊である。天上天下唯我独尊は、おそらくもっとも意味を誤解されている仏教用語であろう。
天上天下唯我独尊の本当の意味は、誰しも「唯我独尊」、唯一無二の尊い価値を持っている存在であり、その違いであり、価値を認めあう必要があるというものである。決して、1人よがりな言葉ではない。だからこそ、母校の英語科教員は天上天下唯我独尊に「Think & Share」という共感的な訳語を添えたのである。
この言葉も、いささかレヴィナス老師的であると思う。すべての人は、唯一無二の、互換性のない、さらに言えば理解を絶した存在である。そして、だからこそ、その切迫を肌で感じ、理解ができないながらも相手を歓待し、尊重するスタンスを持ち続けなければならないというものである。相手を尊重しなければならないというありがちな教訓の、前提に、相手の他者性、つまり絶対的に理解不可能な、唯一無二性を置いたところに、天上天下唯我独尊という言葉の重要性を感じるとともに、非常にレヴィナス老師的であるという解釈ができる。母校は、カナダへのホームステイを含む国際交流を長らく行っている。私は英語が全くできない状態で、カナダの家庭や高校に放り込まれて、10日間を過ごした。途中、少しずつ英語を覚えてきたが、理解の絶した相手からの歓待を受けるという類まれなる経験をそこでした。まさに、この起点には天上天下唯我独尊の哲学があると思う。
 
これらのエピソードや標語は確実に、自分自身の血肉となっていたが、本書を読むことを通じて、それらを再認識することができた。
冒頭にも書いたが、書いた前には想像のできなかったことをが、書いた後にはそこにあるということは本当に不思議なことである。後半は自分語りに集中してしまったが、この文章を通じて、『レヴィナスの時間論』、ひいては『時間と他者』のテクストの豊穣さに少しでも貢献できれば、それ以上の喜ばしいことはない。


 

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