見出し画像

しじみの味噌汁

 大学時代からの友人に生身で会った。二月以来だから、もう半年近くぶりということになる。ただ、ちょくちょくLINEやzoomで話していたから、久しぶりな感じは無かったけれども、生身の相手に会うと、リラックスできるし緊張もするし、同じタイミングで360度同じ空気を共有して、それなのに違うことを感じたっていう感覚を交換できて、めちゃくちゃ疲れるのに、めちゃくちゃ楽しい。

 で、気づいたら二万歩も歩いていた。品川〜大崎〜渋谷〜代々木公園。ほとんど電車に乗らず、密を避けて歩きまくった。歩きながら、マスクの暑さに窒息しそうになりながら、それでも話足りないくらいおしゃべりした。

 夕飯に、代々木公園と渋谷の間にある魚屋さんの二階で、鮭ハラスの塩焼きとお刺身盛り合わせの定食を頼んで、半分ずつ食べた。

 白米としじみの味噌汁を無限にお替りできるシステムで、くいしん坊の私たちは白米を二杯頂き、しじみの味噌汁は具まできれいに平らげた。

 疲れた身体に、しじみの味噌汁は染みる。

 で、殻ばかりになった味噌汁椀を見て、ふと大学生だか社会人になったばかりの頃の出来事を思い出した。

 あれは確か、同じように暑い季節。男子の車で、大人数(と言っても4、5人だったと思う)で海の近くに出かけたときのこと。漁港近くで、同じようにめいめいが好きな定食を頼んだ。昼ごはんだったと思う。新鮮な魚と、めいいっぱい出汁が出たしじみの味噌汁。あっという間に平らげそうだったけれど、まだ知り合って日の浅い仲間の手前、なるべく周りを見ながら、ペースを合わせて食事をしていた。焼き魚と、おしんこと、白米と、味噌汁が、減りすぎず、残りすぎないように。味噌汁のしじみは、スーパーのしじみとは違って、出汁が出た後なのに身がプリッとしていた。

 「え、しじみの身食べる人初めて見たんだけど....」

 その場でしじみの身を食べていたのは私だけだということに、その一言でハッと気がついた。どうやら、出汁として旨味が出きっているから身は食べない種族がいるらしい。

 「え....あ、うん。みんな食べないんだね...(私は、食べるんだけどさ、これってなんか変な空気だけど、私が変てこと!?)」

 なんとも、自分がものすごく行儀の悪いことをしているような気持ちにさせる一言だった。その子の指摘に同調する空気感、視線、全てのパワーは凄まじく強靭で、魚の美味しさも私自身の尊厳も、その場から全て消え去った。

 「あの時さ、ほんとめっちゃ居心地悪かったんだが!」と、酒も飲んでいないけど、ついさっきの出来事みたいに思い出してあつくなった私に、友人がくれた一言にちょっと救われたというか、諦めがついたというか。

 「自分のやり方と違う人を排除しかできなくて、受け入れられない人たちっているのよ。ちなみに私もしじみは全部食べちゃうけども。ほら。わら。」

 洋食をカトラリーでいただいている時に、思わずナイフを口に入れてしまう、みたいなそもそもマナー違反の場合はそりゃ正す必要があるけれど、焼き鮭の皮を食べるか食べないか的な好みの話で、たまたま違う志向を持った人と出会った時に、どう振る舞うかってほんと大事だなと思った。そして、そういう多様性への受容性があるかどうかって、生身のその人と、なんでも無い時間をたくさん重ねないとわからないんだよなと思った。

 文化が栄えたシルクロードだって、西と東そもそも全然違う人たちがいい感じに混ざりあった訳で、何が正しいかとか、自分の文化の方が上なのよ、みたいな振る舞いは、文化がまったく誕生しないコンクリート近代ジャングル埋立地しか生まないよなあと。二人揃ってしじみの殻だらけになったお椀を見てゲラゲラ笑ったのであった。

 まだまだ青くさかった20代の私の傷ついた心は、土砂降りの止んだ渋谷の空で、十数年後に成仏した。

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートは、執筆の取材活動に使わせていただきます!テーマのリクエストがあればコメントください!