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力不足ゆえに1人の少年の命を無駄にしてしまったかもしれない

私の長い僧侶経験の中で、1番印象に残っているのは、小学生のサッカー少年のご葬儀でした。

その子はまだまだ可愛らしく、スポーツ万能でした。
そのため、友人も多くいたそうです。
いつものようにサッカーの練習をしていた少年は、突然倒れたのです。
今まで大きな病気もしたことなく、健康優良児であった少年がです。

急いで救急車で病院に運ばれました。
しかし、だんだんと衰弱していき、話ができなくなって3日後に息を引き取ったのです。


その少年のご葬儀で私はお勤めをさせていただきました。
だいたい6,700人くらいでしょうか。
多くの人が弔問に訪れていたのを今でも覚えています。

お式が終わり、少年のご両親と少し話をする時間がありました。
「多くの人が来てくれたけど、見世物みたいになってしまった。何でわが子がこのような目に合うのか」
両親は、わが子を突然失った悲しみと、この世の不条理に涙するのです。
そんな状態の両親に、いったい何と言葉をかけることができましょうか。
僧侶としての私には、ただただ心を込めてお念仏申すことしかできませんでした。

そして翌日の葬儀式も、多くの子供たちが参列しました。
出棺の前に、ふと外を見ました。
そこには、多くの子供が友達の最後の瞬間を見届けようとしています。
泣いてる子もいます。じっと霊柩車を見つめる子もいます。手を合わせている子もいます。
どういう想いでそれぞれの子供たちはいるのだろうか。
そう考えてしまいます。
様々な表情の子供たち。胸に秘めたその想いは、車の中からではうかがい知ることはできません。
しかし、命の儚さ、命の大切さを少しでも感じてほしいと願いました。

霊柩車が火葬場に到着し、いよいよお別れの時。
火葬炉に収める際、少年のお母様が
「○○ちゃん!」と叫びながら自分も火葬炉の中に飛び込もうとしました。
慌てて周りの人たちが止めます。
その光景に私は驚愕しました。
行動そのものにではなく、母親の子を想う気持ちにです。
私が逆の立場であったのなら、どのような行動をするでしょう。
正直に申せば、わからないというのが本当のところであります。
悲しみを想像することはできても、あくまで想像の域を出ません。
僧侶という立場でご縁を頂きましたが、かえって私のほうが、母親の愛情、慈悲深さ、子供のためにという姿勢を教えて頂いたのです。

その後49日、100ヵ日、1周忌と法要を行いました。
どの法要も平日に行いました。
友人はもちろん、親戚も呼ばず両親のみですべて行いました。
確かに亡くなられたことは悲しいことかもしれません。
しかし、その死を悲しいものだけでなく、意味あるものにするためには、多くの人に法要を通して出遇い直して頂くことが大切です。
その事を伝えきれなかった私は、まだまだ力不足だったのかもしれません。

このことは今でも忘れず、1人でも多くの方に、法要の価値を伝えられるように励んでおります。


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