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コンディショニング・筋トレ・振りの部分練習など、1時間15分。

わたしたちの存在は理性のコントロールと物理的(=身体的)コントロールのせめぎあいの中にある。身体を自由に動かす時間は、その二つのコントロールの割合を少しずつ変えていく時間。私が私の身体への信頼を回復する時間でもあるし、私の身体が私への信頼を回復する時間でもある。私と身体の和解の時間ともいえる。なんとなめらかでうつくしい時間だろう。

数年ほど前に、いがらっしは自分の身体に約束したことがある。
身体がある場所から逃げ出したいとき、身体は自分の力では逃走することができない。逃げる行動をとれるのは理性のコントロールであるところのいがらっしの自我だけだ。だから、いがらっしは身体の意向を尊重し、その場から必ず立ち去る、と約束した。いくらいがらっしの自我が、「理性的に判断して」立ち去らないことのほうが利益が大きそうに見えたとしても、立ち去る、と。

最近、いがらっしはその約束を破りかけていた。このくらいなら大丈夫なんじゃないか、などと。
そうしたら、身体からは頭痛というメッセージがとどき、視界がぼやけ、顔が悪くなり、動悸もする。
「約束したじゃない!」

そうでした。約束しました。ええ、覚えています。
わかりました。立ち去ります。

そして一夜。

危険ゾーンに達していた頭痛が嘘のように収まって、いろいろなことを吹き飛ばすような一日を送ることができました。

身体ちゃんはいがらっしの生存可能性を高めんがため、メッセージをくれるのです。無視するのは愚の骨頂です。
生存可能性とはつまり、質の高い生のことだと思います。

Oliver TreeのLife Goes Onを繰り返し繰り返し聞きながら。

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