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自分がコンテンツにならない限り勝ち目はない

よく考える。働かずに生きていきたいと。

色々考えた結果、働かずに生きていくために必要なのはコンテンツ力なのかなと思った。

コンテンツ力。

「コンテンツを提供する力」ではない。「自分自身がコンテンツたりうる力」だ。

コンテンツを提供する力だったら、きっと、努力をすれば身につく。凡人であっても身につけられるだろう。きっとわたしも、努力して何らかのスキルを身につければ、何らかのコンテンツを提供して金に換えていくことはできるはずだ。

でも、それは立派な労働なので、今の生活と大して変わらない。組織には属さないで済むかもしれないけれど、わたしが目指すのはそんな中途半端なゴールじゃない。(働きたくないって言ってるみんなもわかってくれるよね)

その人自身がコンテンツになるにはどうしたらいいんだろう。その人だったら何をしても面白いような、何をしても金が生まれるような。つまり、生きているだけで金を生むような人になれたらいいのに。

例えば、ヘッダー画像のカニは(わたしがふるさと納税で手に入れたカニなんだけど)、生まれてきてある程度育ちさえすれば、「おいしさ」を人間に提供できる。これはもう、カニそのものがコンテンツだ。

人間で言えば、極端な話、顔が良い人はもうそれだけでコンテンツだ。存在しているだけで金が生まれるし、周りを幸せにできる。顔の写真だけでお金を稼げる。最高のコンテンツだ。

レンタルなんもしない人さんも、その人自体がコンテンツになっている。もちろん、レンタルされた面白い話を発信してはいるけれど、あの人の面白みがあってこそのものだろうし、同じことを他の人はできない。あの人が登場したとき「なぬー!こりゃ1本取られたわー!」って思ったのはわたしだけじゃないはず。


わたしは凡人なので、コンテンツにはなれない。デブだし、まあ平均より多少頭が良いかもしれないけど、それがコンテンツになるほどではない。だから、努力さえすれば誰でも身につくようなスキルを身につけて、誰がやってもいいような仕事をして金をもらっている。

クソみたいな人生だなあと思う。

でも、こんなことでうじうじ言うのは、自分の自己肯定感が死んでるからなんじゃないかって最近気づいた。だって、ほとんどの人間がコンテンツにはなれないのに、何だかんだ前を向いて生きている。わたしは「コンテンツになれないから金を稼げなくて物理的に食えなくなって死ぬ」というよりは、「何かを生産できない自分には存在価値がないから死ぬしかない」という意味で、自分がコンテンツになれないことを嘆いている。


思い返せば、わたしは15,6歳くらいまでスペックで武装することでしか生きていけなかった。勉強が一番のそれで、強迫性障害のようにテストで満点を取らないと死ぬタイプの人間だった。中学のテストは各科目50点満点だったので、49点を取っては地団太を踏んで悔しがり、46点を取った日には白昼の教室でギャン泣きして過呼吸になって家に帰された。とにかく、テストで満点を取ることで、自分は生きていていい人間だという実感を得ていたし、精神を安定させていた。

そんなこんなで進学校の高校に行って、テストも同じくらいの熱量で受けていたけど、まあ上には上がいるもので、自分は大して上でもなくて、ああ勉強をアイデンティティにするのは無理だあって、そのスペック武装を手放さざるを得なくなった。でも高校の友人たちは、別に成績が良いわけではないわたしとも仲良くしてくれて、スペック武装しなくてもいい世界線を知った。びっくりだった。

だけど、大学受験に失敗して、分かりやすくメンタルを潰した。もう完全なメンのヘラだった。やっぱり自分はお勉強をアイデンティティにすることから抜け出せ切れていなかった。浪人しても受験には失敗して、もうズタズタの気持ちだったのだけれど、いざ大学に入ってみたら(勉強の出来具合とか見た目とか)自分が意外とマシな部類の人間だと気づいたので精神が少し回復した。けっきょく精神を回復させたのも自分のスペックだった。クソである。

大学では、下ネタをアホみたいに言ったり奇抜な行いを重ねるということで存在価値を創出していた。いや、価値があったかは知らんけど、そういうキャラ設定が受け入れられるコミュニティに属せてよかったなあと思う。本当に受け入れられていたかは知らんけど。

大学では勉強を諦めつつあったので、コンテンツに全振りしようと思っていたのだ。コンテンツ力がない人間は終わっている!と常に思っていてコンテンツ力をつけようと必死だった。

兎にも角にも、「周りにこういう価値を提供しなきゃ」みたいな縛りが自分の中ではあって、今となってはそれがキャラ付けなのか本気なのか自分でもよくわからないのだけれど、自分はどんな自分でいてもいいんだ!みたいな正しい自己肯定感はいつまでたっても醸成されなかった。勉強できなきゃ!とか、面白いこと言わなきゃ!とか、そればっかりで、それができない自分は存在価値ゼロだと思っている。もちろん社会に出てからそれは悪化こそすれ好転することはない。


自己肯定感って、どんな自分であっても存在してていいんだ尊いんだと思うことなんでしょ。それを聞いたときは衝撃だった。

善い行いをして「よくやったぞ自分」と思えることが自己肯定感だと思っていたから。クソみたいな自分でも尊いと思うことが自己肯定感だなんて。そんな馬鹿な。


自分自身がコンテンツになるって、正しい自己肯定感と似ている。コンテンツを提供しなくても、自分の価値に納得できるってことじゃん。それは強すぎる。自分で自分をそう信じられたら、わたしは無駄に死にたい死にたいと夜な夜なTwitterでつぶやかなくて済む。

こういう風に理想の在り方は理解してはいても、なかなかそうは思えないものなので、コンテンツ力を磨くために知識を求めるし面白いことを探すし身体を張る。これが凡人のせめてもの足掻きなのだ。そうやっているうちにいつか自分そのものがコンテンツになっていたらいいなとも思う。コンテンツになれればわたしはきっと自己肯定感を持てる。それはそれでスペック依存の自己肯定感だけど、今の「スキル!偏差値!資格!」みたいなスペック武装よりは1億倍マシだと思うので。


焼豚女のコンテンツに、乞うご期待!!!



追伸

このアニメが深くてとても良かったので皆さん見てみてください。



つづく

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