妹尾義郎と仏教社会同盟の戦後についての覚書

 近代仏教研究者の大谷栄一によれば、エンゲージド・ブッディズムには①サービス系②アクティビズム系③ダイアローグ系の三類型があるという(*1)。
 戦後日本におけるアクティビズム系エンゲージド・ブッディズムの源流は妹尾義郎らを中心にした仏教社会同盟(仏社同、結成時は仏教社会主義同盟)にあると考えるのが自然である。しかし、戦前の新興仏青とは異なり、戦後の妹尾と仏社同についてはあまりまとまった研究がない。本稿では、いったんその理論面は立ち入らず措くとして、仏社同のあゆみを管見の限りでまとめておきたい。

 仏社同は大きな幸運と不幸の中で生まれた。幸運というのは、各宗派での宗団民主化運動の高まりである。これが仏社同の超宗派・通仏教的運動の前提となったのは疑いない。また、政治面でもいくつもの主体が民主主義革命のための統一戦線を模索していたことも後押ししただろう。
不幸というのは、統一戦線を呼びかける主体のひとつであった日本共産党が、まだ明確に反宗教的態度を取っていたことである。戦前のセクト主義的偏向や反宗教運動のあやまりを引き継いでいたし、反宗教声明を出したり(*2)、憲法草案(46.6.28)に「反宗教宣伝の自由」を明記するなどしていた。そのため自然と仏社同はもう一つの主体である日本社会党とつかず離れずの関係をとるに至った。

 治安維持法違反で服役していた妹尾は、42年仮出獄し、はじめ東大病院で、のち信州松本で療養生活を送った(*3)。終戦後には、新潟の国鉄従組でオルグとして活動していたことが分かっている(*4)。この45年から46年にかけて、仏教各宗派では宗団民主化運動が個別に開始された(*5)。
46年3月、友松圓諦の真理運動の一員であった江口信順が社会党中央にはたらきかけ、党中央に「仏教対策班」が発足した(*6)。この対策班が仏教における統一戦線組織結成工作をしたとみられる。仏社同結成前の時点で社会党機関紙は「仏教徒社会主義者同盟の結成の準備が進められている」「宗教民主戦線の機運」と伝えている(*7)。そして7月7日、妹尾、林霊法、壬生照順ら新興仏青の同志ら中心に、仏社同は結成された。後年の記録では妹尾はこのとき委員長に選任されたとされている(*8)。ただし3回大会まで「委員長問題」が存在したらしい。
その後仏社同は社会党と共同歩調を取りながら運動を開始する。46年9月の社会党大会では、仏社同の申し入れを受けて「宗教政策の問題について」の決議が採択された(*9)。46年中に社会党仏教対策班は宗教の文化革命方針の具体化として「仏教民主連盟」を提案している(*10)。46年末からは講師には高津正道(本派擯斥)などを招いて社会党と仏社同が共同で仏教社会主義研究会を開催した(*11)。47年の衆参ダブル選挙では、会員から衆院7名参院3名の議員を輩出したが、そのすべてが社会党公認であった(*12)。

 しかし仏社同内部は決して社会党一色ではなかった。妹尾はのちに森戸辰男に請われて社会党に入党する(妹尾日記⑥)が、当初から容共的姿勢であったことが指摘されている(*13)。他方で、最後まで仏教社会主義者を名乗り続けた斎藤精鉅などは最終的には民社党に流れていったし、反共謀略を強めた佐野学も仏社同に加入していた。宗教平和運動を続けた壬生照順や戦後世代の中濃教篤もいた。また、社会党仏教対策班の独自の活動も確認されており、社会党と仏社同が不可分一体のものではなかったことがわかる(*14)。

 47年11月16日、仏社同第2回大会が神田寺で行われた。大会決議は仏教界の民主化不徹底を批判した。他方、仏社同が「委員長問題」と「名称問題」を抱えており、これらを棚上げして委員長職は空白とされた(*15)。大会決定に沿って、仏社同は11月に社会キリスト教連盟に連携申し入れ、48年1月には仏教各派の民主化運動に仏教民主連盟結成を呼び掛け、同月には社キ同とともに宗教民主連盟を結成、3月には仏教民主連盟結成に至った(*16)。この間、社会党は別に僧侶党員第一回全国会議(仏教対策班第一回全国大会)を開いている(*17)。
同年5月、仏社同第3回大会が開かれ、機構改革と「仏教社会同盟」への解改称行われた。大会決議では戦犯退陣を決議、仏教民主連盟促進と宗団革新連盟との共闘強化が謳われた。委員長には妹尾が就任した(*18)。8月には斎藤精鉅の主導で、開始されたばかりの世界連邦運動に団体加盟している(*19)。この年、妹尾と壬生は「佛教政党構想」を掲げていたが、個人的構想にとどまり仏社同の方針とはならなかった(*20)。
49年4月、日大講堂にて23の団体を集め全国佛教革新連盟を結成、妹尾が委員長に就任した。この時、平和擁護大会へのメッセージとユネスコ協力連盟への参加を決議している(*21)。同年末に、妹尾は請われて社会党に入党した(前述)。

 51年に講和問題が起こると、仏社同は全面講和運動の矢面に立った。6月、宗教者平和運動協議会結成、常任委員に斎藤と渡辺虚堂が選出された(*22)。7月には総評系の平和推進国民会議の事務局長に妹尾が就任(*23)。9月には全愛協と国民会議の事実上の共闘で行われた平和国民大会が開かれ、その責任者は妹尾であった(*24)。このころ仏社同では妹尾を先頭に全国大遊説を行っている(*25)。

 この後の仏社同の活動実態に関してはつまびらかにはわからない。ただ53年11月に解散したことはわかっている(*26)。妹尾は日中友好協会東京都連会長や日朝協会初代会長に就任、引揚げ者擁護運動に携わる傍ら、内灘闘争、砂川闘争、松川事件救援などにも精力的に活動し、階級的確信を高めていた。内灘では、現地住民に共産党入党を勧めてもいる(*27)。55年の日本共産党「6全協」ごろに妹尾は共産党への信頼を確かにし、死の直前に日本共産党に入党している(*28)。活動のしすぎで気管支拡張症を発症した妹尾は療養の末、61年8月4日に肝疾患で没した(*29)。

 原水爆禁止運動を機に平和運動と接近した仏教運動は、妹尾の死と同年の第一回世界宗教者会議を機に日本宗教者平和協議会(日本宗平協、初代事務局長壬生照順)を結成、現在まで続く宗教者平和運動への道を開いた(*30)。

参考文献

(*1)大谷栄一(2012)「1950年代の京都における宗教者平和運動の展開」『社会学部論集』佛教大学研究推進機構会議(54).
(*2)仏教社会主義同盟「ブッディズム」47年2月号
(*3)吉田久一(1966)「妹尾義郎と仏教社会主義」『日本歴史』212
(*4)仏教社会主義同盟「前衛佛教」48年1月15日
(*5)中濃教篤(1971)『近代日本の宗教と政治』アポロン社
(*6)「中外日報」46年12月14日
(*7)日本社会新聞社「日本社会新聞」46年7月3日
(*8)「中外日報」46年7月16日、大原社会問題研究所『社会・労働運動大年表』DB
(*9)「中外日報」46年11月16日、仏教社会同盟「ブッディズム」47年2月
(*10)「日本社会新聞」46年11月27日
(*11)「日本社会新聞」46年12月11日
(*12)中濃 前掲書
(*13)しまね・きよし(1959)「新興仏教青年同盟 妹尾義郎」『共同研究・転向 上巻』平凡社
(*14)「日本社会新聞」47年10月27日
(*15)仏教社会主義同盟「前衛佛教」48年1月15日、佛教新聞」48年1月1日
(*16)大原社研前掲書、「佛教新聞」48年1月11日、同2月21日。
(*17)「佛教新聞」48年1月11日、同2月1日
(*18)森下徹(2004)「戦後宗教者平和運動の出発」『立命館大学人文科学研究所紀要』(82)、「日本社会新聞」48年6月9日、朝日年鑑1949年版
(*19)中濃 前掲書
(*20)「佛教新聞」48年12月11日
(*21)中濃 前掲書、吉田 前掲書、新聞月報2(4)、同2(7)、読売年鑑1950年版
(*22)森下(2004)、森下徹 (2006)「全面講和の論理と運動 : 日本平和推進国民会議を中心に」『戦後社会運動史論 1950年代を中心に』大月書店
(*23)吉田久一 前掲書、吉田健二(1982)「講和運動の軌跡」『文化評論』254、森下(2006)
(*24)吉田健二 前掲書、読売新聞51年8月31日朝・夕
(*25)仏教社会同盟「仏教社会新聞」16号
(*26)仏教大年鑑1961年版
(*27)吉田久一前掲書、中濃前掲書、稲垣真美(1974)『仏陀を背負いて街頭へ』岩波書店、細井ゆうじ【宥司】(1974)「宗教運動と平和擁護のたたかい」『文化評論』158、細井宥司(1992) 「妹尾義郎と新興仏教青年同盟」『文化評論』374、
(*28)吉田久一前掲書、稲垣前掲書、細井(1992)
(*29)吉田久一前掲書、中濃前掲書、稲垣前掲書
(*30)斉藤昭俊(1969)「仏教集団における諸組織」『智山学報』17、中濃前掲書
※「妹尾義郎日記」を入手できずほとんど参照できなかったことをご承知おき下さい。

(栗波嵩也)
(機関紙「前衛仏教」2023年9月号掲載)

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