【追悼】近藤誠 ー 僕はこの2年半、何を考え、どうしてきたのか
担当編集者より
2022年8月13日、これまで30年以上にわたり、がん、ワクチン、健康診断、そして新型コロナウイルスなどを通じて、日本の医療の問題点を独自の視点から指摘し、そしてその改善を自ら実践されてきた医師の近藤誠先生が急逝しました。
73歳という、まだまだこれからという時期にこの世を去られた先生のことを想うと、衝撃、悔しさ、そしてなにより悲しみをこらえることができません。
改めまして、心よりご冥福をお祈りいたします。
私は担当編集として、『新型コロナとワクチンのひみつ』『コロナのウソとワクチンの真実』(和田秀樹氏との共著)『「副作用死」ゼロの真実』の3冊をご一緒に作ってまいりました。
先生のお考えに対し賛否両論あるのはよく知っています。ただ、間近で接した身として思い出されるのは、病気よりなによりも、とにかく患者さんの「人生」を一番大切に考えていた先生の医師としてのあり方です。そしてよりよい医療、治療のために、常に研鑽を怠らず、全身全霊で本作りにのぞんでいるお姿でした。
そんな先生のまさに人生観、死生観が端的に表れている『「副作用死」ゼロの真実』の「終章」を追悼の意味合いを込めて、公開いたします。
「医療」とは本来どうあるべきものなのか。真の「健康」とは一体何なのか。そして、人間にとって「生きる」とはどういう意味があるのか。
ぜひご味読のうえ、一人でも多くの方に広めていただければ、きっと先生も喜ばれることでしょう。微力ながら私からの切なるお願いです。
(編集部大森)
父の背中が教えてくれた「免疫」の本当の意味
新型コロナは人類が未体験のウイルスなので、どう対処したらいいのか、自粛の要・不要などに関し、間違った判断をしてしまう可能性がありました。
それでも各人は、マスクをつけるのか否か、ワクチンを打つのかどうかなど、絶え間なく決断を迫られてきたわけです。
それは僕も同じですが、医師としての経験・知識がある分、より決断しやすかったように思います。その僕が何を考え、どう行動してきたかは、読者の参考になると思うので、最後にこれを書くことにします。
新型コロナの登場を知って考えたのは、新型コロナも感染症であるからには、基本、他の(風邪、インフルエンザ、肺炎などの)日常経験するような感染症に準ずればよいのではないか、です。ただコロナウイルスの毒性が未知だったので、それ次第で多少、手を加える必要があるかな、と。
従来の感染症に対する対処法からお話ししましょう。
子どものころ不思議に思っていたのは、僕はしょっちゅう風邪をひくのに、開業医だった父が風邪をひいたり、寝込んだりするところを一度もみなかったことです。
でも、医学部に入って「免疫」について学び、疑問は氷解しました。細菌やウイルスに感染することによって免疫システムが鍛えられ強くなるのだ、と。
これは後年のことですが、「交差免疫」というものがあって、何かの病原体に感染して免疫がつくと、別の未知の病原体にも、ある程度の免疫がつくことも知りました。普通の風邪コロナに感染した経験があると、新型コロナに対する部分的な免疫もできていることが報告されていますが、それも交差免疫の一例です。
思い起こせば父は、外来に来る患者さんたちから、いろいろなウイルスや細菌を繰り返しもらって、そのたびに免疫システムが刺激され、強化されていたのでしょう。
そう思い当たったので僕は、「普通の感染症からは逃げてはダメだ」「むしろ積極的に感染して、免疫を強化しよう」と考えました。
医者として慶應病院で働きだしてから、感染対策は一切しませんでした。
どんどんウイルスをもらって免疫システムを刺激・強化していれば、もし未経験のウイルスがやってきたときにも、抵抗力が発揮できるだろう、と。
大勢の患者たちを診る外来でもマスクをしたことはなく、患者さんがマスクをしていれば取ってもらいました。
「あなたのウイルスをもらって、免疫を強化したいので、マスクをはずしてください」と。
マスクをつけない(つけさせない)別の理由もありました。僕は慶應病院では、種々のがんの放射線治療にたずさわっていました。その診察時、がんという人生の一大事を相談するには、医者と患者は互いの顔や表情を見つめ合い、相手の受けとり方や心のうちを確かめながら対話をつづけるべきだと思ったのです。
僕はこの方式にしてから、寝込んだことはありません。少し体調がおかしくて熱がありそうだ、風邪にかかったかな、と感じることはあります。しかし、1~2日で体調はもとに戻ります。体温など、ここ数十年、測ったことがありません。
甘かった新型コロナ登場時の考え
その僕が、新型コロナが登場した年(2020年)にどう考えていたか。秋口に書いた以下の文章が参考になります。ワクチンが登場する前のことです。
僕は、マスクや手洗いという対策についても、インフルエンザ時にマスクや手洗いをする効果についてのエビデンスがないこと、わざわざ「比較試験」をしても「何もしないのと同じ」という結果しか得られなかったことを知っていたので、対策として取り入れる気持ちにはなれませんでした。
それで流行が始まってからも、マスクはしないでいました。僕は外来への出勤や食料品の買い出しに、毎日のように電車で出かけていますが、そのときにもマスク不着用。
ただし、お店に入るのにマスクを求められれば、争わずにUターン。このような行動をとるひとつの理由は、エビデンスがないというだけでなく、僕が著書でマスク不要と説くからでもあります。そう書いた著者が、もし1分でもマスクをつけたらおかしいでしょう?
ではワクチンについてはどう考えたのか。この点、実地接種が始まったあとの2021年5月にはこう書いています。
しかしこれは甘かった。
ワクチンによる死者は、想像をはるかに超えていました。そのため「新型コロナで死にやすそうな人は、ワクチンでも死にやすいから、ワクチン接種はやめたほうがいい」と意見を変えました。コロナで亡くなるのは人として自然ですが、ワクチンで死ぬのは不条理で無念です。
「今日」という日を充実させて生きること
最後にワクチンについての考え方を記しておきましょう。前に述べたことですが、改めて書いておく意味があると思うのです。
僕は1948年生まれの高齢者ですが、ワクチンを打つつもりは全然ない。
新型コロナは、僕にとっては「ただの風邪」としか思えないからです。
高齢者であっても、新型コロナが重症化しない人のほうが多数派で、その人たちにとっては従来の風邪やインフルエンザと同じです。
ただ新型コロナでは、虚弱高齢者が多数、死亡しているわけですが、従来はどうだったのか。これまでだって虚弱高齢者は、「ただの風邪」をきっかけに肺炎を起こし、よく亡くなっていました。それがコロナに代わっただけではないか。
新型コロナで亡くなるのも、虚弱高齢者にとっては「ただの風邪」に起因する、避けられない宿命ではないでしょうか。
製薬会社や各国政府の発表する、ワクチンの有効性が信じられないのも、打たない理由のひとつです。
そしてなにより、ワクチンの副作用が恐ろしい。たとえ死ななくても、発熱などの副作用がひどく、後遺症で苦しむことがあるというのも恐怖です。
もちろんゼロリスクはありえないので、新型コロナにかかって重症化することもあるだろう、とは思っています。それは高齢者のいわば運命でしょう。しかし、感染症については自分で変えられる運命もあります。
こう書いています。
つくづく思うのは、人の免疫システムって素晴らしい、ということ。新型コロナのような、未体験の病原体に対しても抵抗力を発揮してくれるので、人は心おきなく活動できます。もし免疫システムに瑕疵があったら、この歳まで生きられなかったことは確実です。
そんな素晴らしい免疫システムを持っているのに、人びとは、どうして自分の体を信じることができないのか。それどころかワクチンという“劇薬“に頼ろうとする。それによって免疫システムを混乱させ、死者を増やしているのだから、本末転倒です。
人間にとって、消極的な、逃げ隠れする人生はダメ。もっと楽しい人生を送らなければ。
今日という日を充実させて生きることが大事です。
万一免疫が働かなくなったら、それは寿命がきた、ということ。新型コロナに感染したっていいじゃないか。
もしそれで死ぬようなら、もともとお迎えが近かったということ。それは僕の運命でしょう。いさぎよく甘受するつもりです。
『「副作用死」ゼロの真実』(ビジネス社)
終章「僕はこの2年半、何を考え、どうしてきたのか」より
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