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あの瞬間 の話

あの瞬間のあの情景は、これから先どれだけ時間が経とうとも、脳裏から離れることはないだろう


あの日の前日の昼頃、息もできない程の激痛に耐える妻をこれ以上見ていられなかった

痛みから解放してあげられる手段があるのならどんなものでも講じてあげたかった

主治医に頼んで、強い薬で眠っていられるようにしてもらった

次第に痛みは和らいだようだった、、、意識と引き換えにして


もしかしたらもうこのまま目を覚さないかもしれない(いやまさか、彼女に限ってそんなことはない、またすぐに目を覚ますに決まっている)

看護師さんから側にいてあげて欲しいと言われて、寝具を用意された

初めての病院泊だった

(気を遣ってくれたのだろうか、けど明日になればいつものように妻は目を覚ます)

妻はずっと眠っていたが、「声は聞こえてる」と看護師さんは言うから、夜中ずっと話しかけていた

今までいろんなことがあったね

辛いこと痛いことばかりで大変だったろうによく今まで頑張ってきたね

けどそれは今だけだから明日になればまたちょっとずつ良くなるから…………………………

翌朝のあの日、着替えと荷物と、少し用事があり一度帰宅した

程なくして義理母さんから

「今先生から、血圧が下がってきてるので、もしかしたらあと数時間かもしれないと言われました」

いやいや…冗談だろう?(妻に限ってそれはない、何度でも奇跡を起こしてきた人だ)

すぐに病院に戻った

確かに未だに目を覚まさないのはおかしい(もしかして、もう目を覚さないなんてことがあるのか…それは絶対に嫌だ…まだ話せてないことは沢山ある)

痛みはもうだいぶ和らいでいるようだ、目を覚さないのが薬のせいなら一度薬を止めてもらおう、目を覚ましてまた痛みが出てくるようなら再度薬を使えばいい

主治医に頼んで薬を止めてもらった

どうしてももう一度話がしたかった


それでも妻は目を覚さない

医師と看護師さんたちが慌ただしくなり始めた

あの瞬間が近づいてきていた

あの中でおそらくただ1人、僕だけはそれでも妻はすぐに目を覚ますと信じて疑わなかった

そうでない未来など受け入れることができない

妻の唇がみるみるうちに変色していく、これはただ事ではない(一体何が起きている?)

その時ついに、彼女が動いた

一瞬だけだが、体を起こして何かを言おうと「あ………」と発声した

(ほら、やっぱり目を覚ました)

それが3回か4回続いた

最初は、キスがしたいのか?と思った

妻の変色して冷たくなってしまった唇に自分の唇を重ねた

そして声をかけた

「大丈夫だよ、今だけだから。すぐに良くなる。今だけ耐えれば、またいつもの日常に戻れる」

最期の力を振り絞って、最後の「ありがとう」を伝えようとしてくれた妻に、一体なんて頓珍漢なことを言ってるんだろうと思う

けどこの時の僕には、すぐに目を覚ますこと以外の可能性を示す思考は完全に停止していた

それ以外の未来は到底受け入れられなかった

僕が妻に最後にかけた言葉は、妻にかけた言葉ではなく、自分自身に言い聞かせていただけの言葉だった



妻の顔は冷たくなり、動かなくなった

ドラマで観たようなシーンがよぎる

「……最後の診察をはじめます」主治医が言った

ここまできてようやく、事態を把握した

「3月13日午前11時18分………約3年間、いろいろなことがありましたが……」

主治医がその後何を言っていたのかは覚えていない

しかし主治医の顔と声が潤んでいるようにも見えた

人の死に慣れているはずの主治医でも、懸命に、必死に生きようとした若い命の灯火が消える瞬間を目の当たりにして、感情が揺さぶられることもあるのだろうか

あればいいな………

薄暗い病室で動かなくなってしまった妻を眺めながら

そんなことを考えていた


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