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【日々の暮らしの中で】

昨年末に暮らすように生きていたいという内容のnoteを書いた。要約すると、日が暮れたら寝る準備をして朝日が昇る頃に目を覚ます生活。夜遅くまで起きていない生活。

この一年は結構これを実践できてる。とにかく夜は早く寝る。朝は起きたら起きる。元々夜型ではないのでこの生活はわたしには合ってるかも。

この朝型夜型は生活にフィットするとすごくいいと思う。朝型人間が夜働いても辛いことが多い。その逆も然り。プラスアルファの負担を自分にかけないことに極力努めた。

朝時間が出来たことで毎日10kmほど歩けてる。これもすごくいい変化。朝起きて、お茶を淹れて、果物を食べて散歩に出かける。必要な買い物はできるならば朝のまだ混んでいない時間に済ませる。このお買い物も楽しい。

なんせ混んでいないので大好きな果物をしっかりと選ぶことができる。八百屋さんで果物や野菜を買い、お肉は必要があればお肉屋さんで買う。

遠くに出ることも少なくなった。この散歩してるコースあたりがわたしの生活圏で、必要なものは揃う。小さなコミュニティの中で暮らしている。お肉屋さんのおばさまと挨拶をして世間話を少ししたり、近くの公園の小鳥を散歩の途中で眺めたり。時々コーヒーを買うカフェでも少しお話ししたりする。そんな生活をしているとイタリアの町や江戸の町を思いうかべる。

なんでも揃うお店があまりない町。小さい個人店がたくさんあって人々は基本的にはそこでお買い物をする。最初は多少は面倒だけれどね。ちょっとした商店街が近くにあれば、買い物をする場所で実際何歩歩くかで考えると、スーパーでいろんなものを探し回ってひたすら歩くより小さいスペースでうまく陳列されていている上にこちらから必要なものを伝えて選択肢を適切にくれる商店街の専門店で揃えたほうが歩き回らずに済む。

大事なことなのでもう一度いう。

最初は多少は面倒だけれどね、ちょっとした商店街が近くにあれば、買い物する場所で実際何歩歩くかはスーパーでいろんなものを探し回ってひたすら歩くより小さいスペースでうまく陳列されていている上にこちらから必要なものを伝えて選択肢を適切にくれる商店街の専門店で揃えたほうが歩き回らずに済む。


こう書くとクリオネはスーパーに反対なのかという疑問にぶち当たる。反対ではない。むしろ好きだ。時に好きが過ぎることもある。ハムやチーズ、お菓子、カニカマ。お惣菜なんかも夢中になれる。もし許されるならお惣菜コーナーの前で1日過ごしてみたいくらい。スーパーには予期しなかった出会いがたくさんある。

でも大量のプラスチックの容器を見るとへこむ。なぜわたしがへこむのかわからないけれど気分がへこむ。その点お肉屋さんや八百屋さんの対面販売で買うと適当な包装でもお願いできるのは気が楽。この外出自粛生活で家庭のゴミの量に驚きを隠しきれなかった。三食家で自炊するとこれだけのゴミが…買った食材よりプラスチックやその他の容器の方が重いんじゃないか…わたしはいったい何にお金を払っとるんや…食材の生産者さんに十分なお金は渡っとるんやろか…この値段でこんなに容器に囲まれて運ばれた食材…いったいいくらで仕入れてきたんや…

それら諸々を考えると頭が朦朧としてきた。ケンシロウと一戦交えた後黒王号に乗ってその場をさるラオウのように一瞬白眼になる。足元もおぼつかずフラフラする。だから氷室京介の【Kiss me】のMVのダンスの練習をしているフリをして誤魔化さざるを得ない。




先日刻み高菜を買った。美味しそうな高菜。もちろん美味しかった。でもこのビニールパックからタッパへ移し替えるときにどうしてもビニールパックに付着したままの刻み高菜が存在する。ラーメン屋さんのコーン的な感じだろうか。このコーンがなかなかの曲者で、実際に食したところで完全に消化されるわけではない。世界のコーンの消費量と実際に消化された意味での摂取量はどの程度違うのでしょう。そう考えると粉にしてコーンパンなんかにするのが正解なのか。コーンについての考察はまた別の機会にするとして、とにかく高菜について。

日本人一人当たりの高菜の消費量を100gとする。ある程度大きくなった人が食べるとして一億人の人口が年間に100gずつの高菜を食べるとしましょう。すると年間1000万kgの高菜が消費されることになります。そして一人当たりの年間に1gの刻み高菜をパックに付着させたまま廃棄しているとすると、なんと年間に10万kgの刻み高菜がロスとなることがわかります。計算あってるでしょうか。

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※新米に合わせて刻み高菜を。やや水を多く入れてしまったのか柔らかめの炊き上がりに。ちなみに我が家に炊飯器はない。お米の炊ける音を丁寧に感じながら炊き上げたい、というのは今考えた建前である。鍋で炊くと美味しいし炊飯器は場所をとる。頻繁に炊くわけではないのでこれでいいのだ。

10万kgは全盛期の大仁田厚約1000人分の重さ。全盛期の大仁田厚約1000人分の刻み高菜が一年で廃棄されていることになります。想像できますか?畑一面に1000人の全盛期の大仁田厚が両手を広げ、タバコを咥えながら太陽を燦々と浴びてこちらを見つめていたら?愛おしくなりませんか?高菜だって愛おしいです。もし自宅の庭かプランターで高菜を育てたらきっとすごく愛おしいはず。

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※そして二杯目を。お茶をかけた。このあたりの流れるようなムーブはさすがとしか言いようがない。一切の無駄も隙もない動きでお茶漬けを創り上げたのである。もはやこれは刻み高菜のひつまぶしと呼んでいい。クリエイティブな気持ちで新米をシンプルに心ゆくまで楽しんだ。ご馳走なり。

という話を踏まえて、もしもの話。もっと個人のお店が潤って商売として成り立つのなら?プラスチックのゴミが減るだけではない。例えばお豆腐やお漬物を買いに行って、持参したタッパに入れてもらう。お味噌も無駄なく使える。地元のお酒とかは酒屋に大きな容量で保存されて、自分で容器を持って買いに行く。瓶に詰めて売られているものより若干お得に地元のお酒を楽しめる。多くの食材のお買い物と収納用の整理が一度にできる。すごくにゃい?以前はこうだっただろう世界。冷凍する分のお肉とかも全部自分の思う容器に入れて貰えばいい。お買い物も楽しくなりそう。

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※翌日はきゅーちゃんの登場であった。冷蔵庫に眠っていたサプライズに胸を躍らせながらvintage2021のライスを愛でた。

せっかく自分が稼いだお金で買うのだから、いい使い方でいいお買い物をしたいと思う。

お金は悪ではない。善でもない。極めてニュートラルなもの。さまざまな価値観を持つ人間同士が物や労働や創造したものを交換する上で必要な物だ。そのお金自体に対し悪か善かはわたしは問わない。あえて問うとすればその過程に善や悪は存在しうるとは思う。それはお金についてきた別のものなのでここでは分けて考える。

そんなふうにお金のことを考えると、始まりとしてはお金自体に価値の重きがあるわけではなく、あくまで物や労働、それら創造物やそれを生み出したあなた自体に価値があると言えるわけで、そこはとても大事だと思う。なのでお金とはあなたの創造した物でもある。だからもっとお金の大事にされる世界になればいいなと思う。そこには人や食べ物となった命への敬意がもっとあるはず。

長くなってきたのでここらでおしまいとしましょうか。みんなの新米レポをお待ちしています。

#新米フェス

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では、ステキな1日を!






本日も【スナック・クリオネ】にお越しいただいき、ありがとうございます。 席料、乾き物、氷、水道水、全て有料でございます(うふふッ) またのご来店、お待ちしております。